~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 「詩人」でもあったサムライたち
この話を聞いて批評家たちは、さまざまな欠点を指摘するかも知ればい。だが、この物語は優しさ、憐れみ、愛情が、サムライの血なまぐさい武勲をもいろどる特質であったことを語っている。古い諺にも「窮鳥きゅうちょうふところに入ずれば、猟師もこれを撃たず」というのがある。
このことによって、キリスト教的な赤十字運動が、なぜあれほど早く日本に基盤を築いたかも、大体説明がつくのではないか。日本はジュネーブ条約(万国赤十字条約)のことを耳にする数十年前から、わが国随一の大衆作家、滝沢馬琴ばきんの作品を通して、敵の傷病兵を治療することに親しんでいたのだった。
あるいは勇猛と厳しい鍛錬で聞こえた薩摩藩では、若者たちが音楽を愉しむのは一般的なことだった。それも「血を騒がせ、死を扇動する前触れ」としてのラッパや太鼓の音楽ではない。哀しくも優しい琵琶びわの調べであり、たけり狂う血気を鎮め、血の匂いや殺戮さつりくの光景から遠ざけるための音楽である。
ポリュビオス(古代ギリシャ時代の歴史家)によると、アルカディアの憲法では、三十歳以下の青年は全員、音楽の稽古を義務付けられているが、それはこの地方の苛酷な気候から来る苦悩を、音楽によってやわらげるためであった。ポリュビオスはアルカディア山脈のこの地方に残酷さが見られないのは、この影響でではないかとしている。
日本においても、薩摩藩のみが武士階級に優雅さを吹き込んだわけではなかった。白河楽翁(白河藩主・松平定信)が、心に浮かぶまま書き残したものの中に、次のような文がある。
「枕に通うともとがなきものは花の香り、遠寺の鐘、夜の虫の音はこと哀れなり」
「憎くともゆるすべきは花の風、月の雲、うちづけに争う人はゆるすのみかは」
このような文学的素養をサムライに奨励したのは、より穏やかな姿を表面に保ち、同時にその心根こころねを養うためであった。それゆえに日本の詩歌には哀感と優しさが底流に流れているのである。そのことは、よく知られている田舎侍(四十七士の大高源吾)逸話いつわが、的確に語ってくれる。
このサムライは俳諧を学ぶことを勧められ、初会の席で「うぐいすの声」という季題を与えられた。武骨者ぶこつものの彼は、この季題に反発して、師匠の足下に次のような句を投げ出した。
鶯の 初音を聞く 耳は別にしておく 武士もののふかな
師匠はその粗野な感性に驚くこともなく、この若者を励ましつづけた。そして、ついにある日、彼は詩歌の心に目覚め、それに応えた。
武夫もののふの 鶯きいて 立ちにけり
ケルナーは戦場で傷つき倒れた時、有名な『生命への告別』を書いた。彼の短い生涯におけるこの英雄的な出来事を、私たちは誉め称える。これと同じような出来事はわが国の戦でも決して珍しいものではなかった。簡潔で警句的なわが国の詩歌は、純粋な感情を即興的に歌い上げるには適していた。どのような教育を受けても、サムライは誰もがそれなりの詩人であった。戦場におもむく武士が立ち止まり、腰の矢立てを取り出して歌を詠むことはごく普通のことであった。だから、戦場いくさばで使者のかぶとよろいをはぐと、その中から辞世の句が見つけ出されることは、まれなことではなかったのだ。
ヨーロッパではキリスト教が、戦いの恐怖のさなかに他者への憐れみの心に貢献したが、日本では音楽や文学を愛する心が、その役割を果たした。優しい感情を養うことは、他者の苦しみをおもんばかる思いやりの心を育てるのである。
それゆえに他者の気持を尊重することから生まれる謙虚さや丁寧さこそ、次に述べる「礼」の根源となるのだ。
2020/09/08
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