~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 茶の湯は精神修養の実践方式
単純きわまりないものが、どうして一つの芸術として大成され、さらには精神的修養となるのか、その例として「茶の湯」を取りあげよう。わが国ではお茶一つ飲むことですら芸術になるのである。それは砂遊びで絵を描く子どもたちや、岩に彫刻をした未開人たちにも、ラファエロやミケランジェロのような芸術の芽生えがあるのと同じことだ。それ故に、ヒンズー教の隠者の瞑想ととみにはじまった喫茶きっさの風習には、宗教や道徳の侍女へと発展する資格は十分に含まれているばかりか、遙かに大きい要素が秘められているといえる。
茶の湯の基本である心の平静さ、感情の静謐せいひつさ、立ち居振る舞いの落着きと優雅さは、正しき思索とまっとうな感情の第一要件である。
騒がしい世俗の喧噪けんそうから離れた、ちりひとつない茶室の清潔さは、それだけで私たちの心から現実を忘れさせてくれる。何もない室内は、西洋の客間に飾られた絵画や骨とう品のように人目をひくものはなく、「掛け物」の存在は、色彩の美しさより構図の優美さに心ひかれる。茶の湯はおもむきを極限にまで洗練させることが目的であり。そのためにはいかなる虚飾も宗教的な崇敬すうけいをもって排除されるのである。
戦乱や戦闘の噂がたえなかった時代に、一人の瞑想的な隠遁いんとん者によって茶の湯が考案されたという事実が、この作法が遊戯以上のものであることを証明している。
茶の湯に集まり来る人々は、静かな茶室に入る前に、なまぐさい刀とともに戦場での残忍さや政治的なわずらわしさなどを捨て去り、この茶室の中に平和と友情を見出したのである。
それゆえに茶の湯は礼法以上のものなのである。それは芸術であり、折り目正しい動作をリズムとする詩であり、精神修養の実践方式なのである。茶の湯の最大の価値はこの最後の点にある。茶の湯の愛好者の中にはそれ以外の点に重点を置く者もいるが、だからといって茶の湯の本質が精神的なものではない、という証明にはならない。
2020/09/08
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