~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 一命を棄てる覚悟
しかしながら、このような寛容、忍耐、寛大という精神を崇高なる高さにまで到達せしめた者は、ごく稀であったと言わねばならない。だが、何が名誉を形作っているかについては、残念なことに、はっきりと一般化したものは何ひとつ語られなかったのだ。ただ少数の賢明な武士だけが、名誉は境遇から生まれるものではなく、個人個人が役割をまっとうに果たすことである、と知っていたに過ぎなかった。 なぜなら、若者たちは平常、孟子から学んだことを行動の最中に、いとも簡単に忘れてしまうからである。孟子は「貴きを欲するは人の同じき心なるも、人々已に貴き者あり、思わざるのみ。人の貴くする所の者は良貴りょうきに非ざるなり。趙孟ちょうもうの貴くする所は、趙孟く之をいやしくす」(名著を愛する心は誰でもみな同じである。だが真の名誉は良い名誉ではない。趙孟が貴くした者は、趙孟に再び賤しくされる)と言ったのである。後で見るように、多くの武士はおよそ侮辱に対してはただちに怒り、死をもって報復した。
これに対して名誉は、たとえそれがただの見栄や世間の評判にすぎないようなものまでも、この世における最高の善として尊ばれた。そてゆえに、サムライの若者にとって追求しなければならない目標は、知識や富ではなく、名誉を得る事だった。多くの若者は、わが家の敷居をまたぐとき、世に出て名を成すまでは、再びこれをまたがない、と自分の心に誓ったものである。またわが子に大きな望みを託した多くの母親は、息子が「錦を飾る」との言葉通りになるまで、再会することを拒んだのだ。恥になることをまぬがれ、名をあげるためなら、サムライの息子はいかなる貧困にも、いかなる艱難辛苦かんなんしんくにも、自分に与えられた厳しい試練として耐えたのであった。彼らは、弱年の頃に勝ち得た名誉は、年齢と共に大きくなることを知っていたのである。
大坂攻めの時、家康の若き息子(徳川頼宣)先鋒せんぽうに加えて欲しいと懇願したが、それが許されずに後陣に配された。そして敵の城が陥落したと聞くや、若き頼宣は悔し涙を流した。老臣の一人(松平右衛門大夫正綱)なぐさめようとして、「若君はまだお若いので、この後、何度もいくさはありまする。お嘆きになることはありますまい」と言った。すると頼宣は厳しい顔で老臣を睨みつけ、「やあ右衛門、頼宣が十四歳の時はもう二度とないのだ」と言ったという。
もし、名誉と名声が得られるのであれば、サムライにとって生命は安いものだと思われた。そのため生命より大事だと思われる事態が起これば、彼らはいつでも静かに、その場で一命を棄てることもいとわなかったのである。
生命の犠牲を払っても惜しくないとする事態とは何か。それが忠義というものである。忠義こそは封建制の諸道徳を結び付け、均整の取れたアーチとする要石かなめいしであった。
2020/09/12