武士道は私たちの良心が主君の奴隷になることなど要求しなかった。トーマス・モブレー(英国の詩人)の次の詩は、まさに私たちの気持を代弁している。 |
畏るべき君よ、わが身は御許に捧ぐ、
わが生命は君の命のままなり、
わが恥はしからず。
生命を棄つるは我が義務なり、
されど死すとも墓に生くるわが芳しき名を、
暗き不名誉の用に供するを得ず。
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己の良心を主君の気まぐれや酔狂、あるいは道楽の犠牲にする者には、武士道はきわめて低い評価しか与えなかった。そのような者は無節操なごますりで機嫌をとる「佞臣」、あるいは奴隷のような卑屈な追従ついしょうで主君に気に入られる「寵臣ちょうしん」として軽蔑された。この二種類の家臣はイアーゴ(シェークスピアの『オセロ』の登場人物)が描く像とぴったりと一致する。その一人は自分の卑しい屈従に目がなく、あたかも主人のロバのように、自分の一生を無駄に過ごす下卑たる下僕である。もう一人は義務に忠実な振りをしながら、心の中では自分のことばかり考えている利己的な卑怯者である。君主と家臣が意見の分かれる時、家来の取るべき忠義は、ケント公(『リア王』の登場人物)がリア王を諫いさめたように、あらゆる可能な手段を尽くして、主君の過ちを正すことである。もし、そのことがうまくいかないときは、武士は自分の血をもって己の言葉の誠実を示し、主君の叡智と良心に最後の訴えをするのが、極めて普通のやり方だった。
わが生命は主君に仕えるための手段と考え、それを遂行する名誉こそ理想の姿であったのだ。サムライの教育と訓練はすべて、これに従って行われたのである。 |
2020/09/13 |