~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
若 き 非 望 (三)
大江匡房以来、大江邸の所在地は通称小二条と呼ばれる二条北東洞院ひがしのとういん西であった。邸の庭の曾祖父匡房の遺愛の十数本の桜はうでに老い朽ちて歳月と共に失せ、昔の面影はない。匡房逝ってから五十三年もたつその邸の家屋も匡房在世中の全盛期と違って、質素な古びたものであるが、その宅地で目立つのは校倉あぜくら造りの書庫である。それは匡房の集めた万巻の蔵書が納めてある。現在の当主である孫の惟光これみつは儒者大江家の資格から朝廷の式部少輔(侍読)だが、祖父のような才能はなく、自分を大江家の書庫守と称して書庫は常に修繕を怠らず、秋の曝書ばくしょも必ず行う手数をいとわぬ。
曝書の為に書庫の隣に一棟の広間が用意してある。蔵書を陽にさらしてならべるための板敷だけの建物だが、その片隅に古畳三枚ほどを敷いて机を置き、そこを学習の書斎としているのは、惟光の三男広元だった。母が異なり年齢もへだてる兄二人は父と同じで式武省に出仕するが、三男坊の広元はひたすら勉学の学生生活に浸り切っている。
今日もその書斎に引き籠る彼だった。曝書用の陽当たりと風通しのための建物とて、戸を開ければ冬の寒さはこたえ、真夏は照りつけられて堪えられそうもない。そのガランとした屋内の机辺に書籍を積んで、そこをわが天地として広元少年は一日を送るのだ。
そこと書斎は裏庭にあり、外からの出入りは裏門からが近い。その裏門を開けて世尊寺伊行は裏庭のもう夏草が生えた小径を踏んだ。
「広元殿居らるるか」
声かけてのぞくと、広元は机から眼を上げ、大江家とは交わりある書道や和歌にすぐれた伊行なのを認めると、「これは」と机を立って、
「邸の方へあがって戴きたい」
「いや、ここで結構、今日はとくと広元殿に談合の事あって参った」
と、伊行はあがり込んでしまった。大江家に若い日から出入りして、広元の神童ぶりも知っている伊行は、大江家の三人の子息の内で広元をもっとも尊敬の念で刮目かつもくしていた。
広元が幼い日に生母が父と離別して他家へ再婚したという、母と生き別れの不幸から、いっとき朝臣中原末広の養子に貰われて育ったが、学者の系統の生家を離れがたく大江家へ戻った。彼はそのような事情から少年にして屈折くっせつした憂苦を覚え、それゆえさらに学究に没頭している。
と言って色の青白い神経質の学者型ではない。曾祖父の匡房似と言われる色の浅黒い筋骨きんこつ質、高い鼻筋と意志の強さを示すような顎のやや角ばった、なにか近寄りがたい個性を示す容貌で、十六歳の少年ながら、はるかに年長の伊行に大人びた悠然とした態度で接する。
伊行が訪問の用件、清盛公の息女の一人へ漢学の教授依頼を話すと、広元の口許に冷ややかな微笑が浮かんだ。
「この広元、一学生に過ぎぬ身ながら、たとえ今をときめく平家の息女とは申せ、幼き小娘に漢文を講ずる閑日月は持ちませぬ。ひらに御容赦ようしゃくだされ」
あまりに毅然きぜんとした拒絶の言葉と冷徹きわまる態度に、伊行は出鼻をくじかれて二の句がつげぬ。
「平家の姫たちとあらば和学がふさわしい。貴殿のお仕込みで国文に上達させるのが何より。この大江家の遠祖(匡衡まさひら)の北の方赤染衛門は、関白道長の生涯を女文字の筆にてみごとな『栄華物語』を残したごとく、その平家の才女の姫も、やがて父清盛の栄華物語をものされるも一興ではござらぬか」
弱冠十六歳の広元の毒舌に伊行はまるで翻弄ほんろうされている感だった。
「そのようなごとはともかく、真剣に考えてみられよ」
伊行はたしなめずには居られぬ。
「仰せのごとく真剣に考えるとなれば、場合によっては平家の館に講義に出向こうかとも思います」
「おう、それは思いなおしてお引き受けあるか」
伊行はホッとして喜ぶその耳に、広元の言葉が矢を射込むようにひびく。
「それは清盛公がこの広元に『貞観政要じょうがんせいよう』の講義を乞わるるならば喜んで参上、清盛公の政治観念の大いなる欠陥を指摘して御参考に供したい、それなら明日にもその求めに応じまする」
そう言い放つ語気は烈しい熱を含んでいる。「貞観政要」とは唐の太宗が、群臣との問答で政治の正しい理念を説いた書である。清盛にそれを講義して公の政治の欠陥を教えたいとは・・・さても大胆不敵な誇大妄想狂じみた少年広元に、伊行は呆然ぼうぜんとさせられた。
われと自らの才能に溺れて高慢きわまるこの秀才にはもう手がつけられず、常識的な学者の伊行は彼とはとうてい太刀打ち出来ぬと諦めて退散するより仕方なかった。
こうした結果となっては、西八条の北の方に面目ないと、伊行はがっくりと首うなだれて、大江家の裏門からとぼとぼと出て行く。
彼に聞えたのは、広元のただ一つの芸である「和漢わかん朗詠集」の漢詩の朗詠の、いかにも長子はずれの声だった。
ともしびそむけて共に憐れむ深夜の月
花を踏んでは同じく惜しむ少年の春
伊行を追い返したあと、広元はいい気持ちそうに声張り上げているのだった。
2020/10/21