~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
変 幻 (三)
この翁は注文に応じて造るだけの名人気質で、商品はならべていないから店というより筆師の家だった。それゆえ梅の古木を家の脇に植えて、七条の商店街のはずrに棲んでいる。
──いまその老筆師の家に現れたのは、家僕の小者を供に連れた世尊院伊行だった。書道にすぐれた彼は唐筆も持つが、この翁の造る筆も愛用していた。彼は新しい筆数本の注文に今日そこに立ち寄ったのだった。
そのこまごまと念入りの注文を翁に与えて彼が立ち去ろうとする時、も一人の客が筆師の家に入って来た。それは大江広元だった。
このおのれの学才への自信過剰に溺れた年少者には、伊行は先日まったくかぶとを脱がされたのである。その不愉快のしこりがまだ消えぬので、その顔を見てもなごやかな挨拶もすらいとは出来ず、苦り切っていると、広元はそんなことに頓着せず、さばさばとして伊行に親し気に言葉をかけた。
「おう、世尊寺殿もここの翁の筆を好まれますか、これは同好の士ですな」
こう言われると、温厚な常識家の伊行はこの年少の広元にとげとげしく振舞えない
「この翁はまったく名匠の筆師ですな」
と応じて足早に立ち去って七条の町通りを上がると、まもなく数珠の店の前で彼の眼にとまったのは、小袖に紗のうちぎを着て、胸に守袋の懸帯をさげた社寺詣の旅姿の少女二人に、付き添う乳母らしいもの二人、それに荷持ちの供の男との一行。上流の家庭の娘の京の社寺詣らしいが、数珠を少女が求めるために選んでいる。その少女は店先にじかに腰を下ろさず、黒塗のあぐらにかけている。それは宮廷や貴族の邸での舞楽の際の出演者が楽屋で待つ間、衣装にしわをつけぬように腰掛けるものだった。そうした物まで用意しての旅姿の少女二人は、いま水晶の数珠を幾つか手にして選んでいる。どうやらそれは幼い妹の為に買うものらしく、姉が妹の手にかけさせては眺めている。その光景が伊行に微笑ましかった。
姉妹は市女笠を脱いで膝に置き、二人さし向かって数珠を見るためにうつむいた横顔は美しく気品があった。
伊行は気付かれぬように遠くからしばらく眺めているうちに ── これは! と驚かされた。
(これはなんと、西八条の西の対におわす姫ではないか!)
伊行はわが眼のあやまちか、他人の空似かといっときは疑ったが、いつもま近く机を置いて読み読み書きを授ける彼はわが目を信じた。第一、付き添う供の女を見ればまさしく汐戸たちではないか・・・。
けれども、近づいて挨拶するのは、ためらわれた。まさか苦心の変装、お忍びの姿である。このまま、ひそかに行き過ぎるが礼節と、伊行がこっそり立ち去ろうとした時、
「これは世尊寺殿、まだこのあたりに悠然としていられたのか」
声かけたのは、先ほど筆造りの翁の家で会った大江広元だった。その彼が大事そうに片手にぶらさげている細長い革袋には翁から受け取った筆がどしっと入っているらしい。
伊行はもたここで彼と出会ってはっとした。いま眼の前の数珠の店にたしかに西八条の姫の佑子、典子の姉妹に違いないのが居られるところを、広元が通りかかったとは、その皮肉さに・・・伊行はいったん立ち去ろうとした足を止めると、
「世尊寺殿何を眺めていられるのか」
広元もあたりを見まわした。彼が伊行の視線を追った時、数珠の店先のあぐらから姉妹が立ち上がったのは典子のための水晶の数珠がやっと選び取られたからだった。彼女が嬉し気にそれを手にかけてもう離さぬ無邪気さに、伊行は微笑を誘われると、広元は無遠慮に声をあげて、
「童女水晶の数珠を愛すとは、さても殊勝の心よ」
とカラカラと笑い声をたてたと思うと、尾を巻き上げた焦げ茶色の犬が猛然と広元に飛び付いた。
驚かされた彼は慌てて向うの数珠店の前に身を避けたが、犬はそれを追いかけて、広元の無造作な身なりの、男子一般用の侍烏帽子に単小袖ひとえこそで括袴くくりばかまのその裾に噛みつこうとする。これを足で蹴ったが、犬はひるまず飛びかかる。広元がいらだって手にした筆の入った革袋で犬の頭を打つと、その袋に噛みつかれ、古びた袋の底が喰い破られ、新調の筆数本がばらばらと地にこぼれ落ちようとした刹那 ──、
「あれ、太郎の狼藉ろうぜき早う止めて」
と声をあげて、佑子が手にした市女笠を裏返し、その落ちる筆を見事に受け止めて、細くしなやかな指に拾い上げた一束の筆を広元に差し出した。
「これはかたじけない」
広元が美しい少女の振舞いに謝するより早く、市女笠のぬしは妹の手をとって町の賑わいの人々の中に歩み去った。
その後姿を恍惚として広元は我を忘れて見送ると── 今まで近くのものかげに身をひそめて事の成り行きを観察していたらしい伊行が現れて近づくなり、広元の肩を扇子で叩いて皮肉に笑って声をかけた。
「なんとなされた。またもや犬に襲われぬようにお急ぎなされ」
だが、あの猛犬はもういずこにか連れ去られて影もない。
「世尊寺殿、あの犬めのおかげで、なんとも心ゆかしき姫御に会うた。わが筆も土にまぶれずにすんだが、さていずこの社寺詣の姫か」
広元は底の破れた筆の袋を大切にふところに納める。
「いずこからならぬ、この京の西八条の姫たちが、忍びの旅姿と見破ったはたしかなこと」
「なに、では平家の姫か!」
「さよう、いつぞや広元殿が幼き小娘に漢文を講ずるなど閑日月は持たぬとお断わりあった西八条の佑姫しゃよ」
伊行にはっきり告げられて広元は呆然とした。
そのようなことがあとで生じているとも知らず、姫の一行はさらに町並を果てまでたどって行きつつ、汐戸は孫の小六を叱っていた。
「なにゆえ、太郎を通りがかりのお方にけしかけてあのような騒動を・・・」
「おばばが言うた。姫に無礼な者には太郎を飛びつかせいと、あのお方は姫を見て何やら言うて笑うたゆえ、太郎をけしかけたのよ」
小六は祖母の叱責に不服であった。
2020/10/25