~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
父 と こ の 娘 (四)
佑子はその妹に優しい微笑を向けて、
「典さまここへ」
と、招き、広元に、
「妹の典子でございます」
というより早くその妹姫は当然のように姉の傍にすわってしまう。雪丸も、もう吠えずこれもおとなしく典子と共に聴講生のようにうずくまっているので、広元は苦笑させられる。
「まだこの幼い方には漢字などは・・・」
まして文集など及びもなことと当惑する。
「典子、なにわづ・・・・のかな書きのお手習はもうあげて、漢字も知っている。山、川、草、木、そして亀も書ける」
と誇る典子は広元には何の恐れも抱かず、さながら友だち扱いである。
さすがの広元もこの童女の小さな姫にはまごついてしまう。
「ホゥ、亀の文字も」
と感服して見せるより仕方がなかった。
「そうよ、亀という字は亀の子の頭と甲羅としっぽのついた形にそっくりよ」
「ホゥ、これはなるほど、して誰方どなたからその漢字を教えられました」
「この姉君から!」
わが姉佑子を誇るように典子に言われると、佑子は広元先生の前で、さっとあかく美しい顔を染めて、すっかりはにかんでしまう。
いつぞや佑子が「千字文せんじもん」の手習をする傍で、典子が「この字、なあに」と彼女にはまだむつかしい漢字を指さして問うので、佑子は妹に覚えられる程度の山川草木をまず教え、漢字がそのものの形象を示す象形文字に近いのをたとえる例に、川は水の流れを型どって三本の曲線を描き、亀の文字もそれと描いて教えて、典子を面白がらせたことがある。
「これはまさしく姉君のおみごとな御教授ぶりよ、感服つかまつる」
これはけっして追従ついしょうではない。広元は佑子が幼い姫に適宜な教え方をしたと心から感じ入ったのだった。
広元にめられて佑子は眼のやり場のないようにうつむいた。
その時、足早に安良井が現れて、
「まあ、典姫はこちらに!」
と、いつのまにか姫に脱け出されたこの乳母は面目なげだった。
「安良井、そなたの不行届きよ。早うあちらにお連れいたせ」
母の汐戸に睨まれておろおろする安良井を典子もあわれんで素直に座を立ちながら、広元にお辞儀を忘れぬ愛らしい姿に佑子は優しい眼を向ける。
「まことに仲睦まじき御姉妹よの」
広元はこの場で平家のこの姉妹の美しく可憐な陸奥まじさに、春風の吹く花園に入ったような駘蕩たいとうとした気分に浸った。
大江家の書庫の曝書用の板敷の一棟に閉じ籠ってひたすら学究生活に浸る彼の身辺は、学問への喜び以外まことに荒涼としたさびしいものだった。それがいま空炊からだきの香のただよう対屋の姫の居間で、美しい少女とその妹も現れて彼の身辺で語り合うこのひととき、広元は今までついぞ味わうことのなかった、匂いやかな柔軟な雰囲気に身を置いたのだった。
「白楽天の詩はもう幾つか読まれましたか」
広元の問いに佑子は、
「ほんの少し、短い詩を」
「そのなかで、どのような詩句を好まれます」
「── 槐花かいか雨にうるおう、新秋の地、桐葉とうよう風にひるがえる、夜ならんとほつする天。尽日じんじつ後庁こうちょう一事なく、白頭の老監、書を枕にして眠る。──」
これは、白楽天が文宋皇帝の頃に宮廷図書館長に召された五十六歳の試作で── 初秋の雨にえんじゅの花が濡れ、夜を迎える空に桐の葉が風に散る。今日一日中官庁の奥に何事も用務がなく、白髪の老秘書長は書籍を枕にうたた寝をする、という詩句。
「ホゥ。なんとこれは意外なお好みであろう!」
広元はこの美少女がこの詩を愛するというのに驚かされた。
「父君(清盛)は六波羅では武者の頭領、福原では大輪田とまりりを築かれ、この西八条にくつろがれる暇もなき方・・・時たまこの館で一日御用務もなく書物を枕にうたた寝を遊ばされて欲しい思うあまりに、近頃この詩句に心魅かれます」
「いかにも!」
広元はうなずき、汐戸はしいん・・・として、殿のうたた寝は書物を枕でなく、北の方のお膝を枕にこそと願う・・・。
2020/10/31