~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
流 現 蜚 語 (二)
上皇二条院を山城衣笠村の香隆寺に葬る八月七日の夜、葬送に供奉ぐぶして夜更けまで帰らぬ清盛を待つ時子のそばに、阿紗伎はほかの侍女たちを下らせて一人残ってのお話し相手だった。
「あの平治の乱の雪の夜に、内裏を女房衣裳でお出ましになって六波羅へ御臨幸になったのは、六年前でございましょうか・・・」
その時十七歳の二条帝は、今宵初秋の風の夜に葬られる。
「その明けの朝、誕生の典子が七つ。産屋うぶやに籠ったままで過ごしたあの頃、阿紗伎、そなたからみかどは道ならぬ恋にお悩みと聞かされた、その思われ人のお方をどうでもと二代のきさきに迎えられたが・・・」
かつて近衛帝の后に立たれて、帝の亡きのちその冥福を祈って引き籠られた麗人藤原多子は、二条帝に恋着されて、心ならずも二度の后となられたが、ふたたび帝に先立たれたのだった。
「あれほど御無理を通されてお迎えのお后のほかに女御もあまたおわしたとのこと」
この度即位の幼帝も他の女のお腹から ── との阿紗伎の言葉に時子はうなずき、明眸過の二代后への同情や感傷が二条院をいたむ心よりはるかに強かった。
── 夜も更けたが清盛は帰らぬ。西八条の門には篝火を焚いて待ち受けているのに・・・。
やがてその門に駆けつけたのは六波羅からの使いの使者だった。
まもなくあわただしく弥五左老が、北の対屋の灯の下にまんじりともせず良人の帰りを待たれる北の方の許へ現れた。
御葬場にてはからずも興福寺と延暦寺に争いを生じ、まことに不穏の形勢にて、今明日にも山門(延暦寺)の衆徒大挙して六波羅を襲撃の怖れありとて、殿は直ちに六波羅に一門を集められて警戒に当たられまするので、今宵はこちらには御帰館なされませぬよし」
弥五左の息せき切っての口上だった。
「これはまたなんとしたこと! 帝の御葬儀にてそのような狼藉を仏の寺院にある者どもが・・・」
時子は憤慨したが、衆徒とは僧兵で、僧衣に薙刀なぎなたその他の武器を持つ異形の集団だった。今までも清盛は彼等を抑圧するために苦心させられている。またもや今宵その騒動だった。
弥五左は直ちに日頃この西八条の中門の廊に詰める警護の宿直とのいの武士を、非番の者も臨時招集した。
時子も眠れぬ夜であった。
「思えば久寿二年の夏の終わりに近衛天皇の御大葬の夜も、六波羅の館で北の方と殿のお帰りをお待ちいたしましたが、あの夜は何事もなくお帰館をお迎え出来ましたに・・・このたびは憎々しい山法師(僧兵)のおかげで、まことに腹立たしいかぎりでございますのう」
阿紗伎はおろおろして嘆く。
この北の対屋の時子たちの不安の夜を、少しも知らされず、東西の対屋の姫君たちは几帳のかげでやすらかな寝息だった。
── その夜は明けて、朝を迎え陽が高くなっても六波羅に僧兵が押し寄せた情報もなく西八条も何事もなかった。
やがて清盛は時子の前に無事な姿を現した。
「さぞ案じたであろうの、やれやれつまらぬ流言に踊らされたものじゃ」
と清盛は鬱然としていた。
「奈良の興福寺と比叡山の延暦寺はとかく角突き合うとは聞きましたが、その寺同士の争いから延暦寺の衆徒が六波羅目がけて押し寄せるとはあらぬ噂でございましたか」
時子は、それは清盛が今まで衆徒弾圧に立ち向かって居たからとは解釈していた。
「それがどうも怖ろしい噂でな、後白河上皇が山門の僧兵に平家追討の院宣いんぜんを与えられた ── という怖るべき流言が伝わったのじゃ。それで平家一門六波羅に集まると聞かれて上皇はうち驚かれて、いわれもなきことと六波羅へにわかに御幸なされての仰せごと、そのごとく僧兵は六波羅にはついに姿を見せず、重盛供奉して上皇は還御なされたが・・・まことに騒動であったぞ」
「さりとて、なぜ殿はそのようなあらぬ噂を軽々しく真に受けられましたか、笑止千万ではございませぬか」
時子は呆れると、清盛は首を振った。
「その浮説をいっとき信ぜねばならぬのはこの清盛に疑心暗鬼が生じたからじゃ。後白河院の油断ならぬ御結構(計略)にいつなんどきこの身が引っかかるか知れぬという覚悟があるからよ」
時子はしいん・・・として良人の言葉に聞き入った。その噂の出所もかねて平家に反感を抱く有力な殿上人の一群からかも知れぬと想像する。
「僧兵の傍若無人の振舞いはいまから八十余年も前の白河法皇時代から盛んになったという。法皇それを嘆かれて『天下ちんが意の如くならざるもの、山法師と、双六の賽と鴨川の水』と宣給のたまわせられたが、いま清盛それになぞらえて申せば『平清盛が意の如くならざるもの、山法師と、双六のさいと鴨川の流れ、さらに後白河上皇の御心底』とあるべきだ。時子そなたも心得ておけよ」
時子も上皇については以前から感じていた。
「それゆえに朝廷に伝統的の力ある摂政関白家とも強いきずなを結ばなばならぬ。盛子を幼き妻に六条殿近衛家に嫁がせたのもそれよ。幸い姫たちは美しく育ってゆく。ゆくゆくはやがて入内の望みも持ちたい。そなたの妹も上皇の皇子の御母じゃ、ありがたい運よな」
そういう良人の清盛が出る杭は打たれる孤独な一匹狼の不安から、平家の為の布石を忘れず念じるのもことわりと時子は理解しても、それはしん・・の疲れる重荷だった。
── 後白河上皇山門の衆徒に平家追討を命ぜられるの流言を、上皇は強く打ち消されるように、その騒ぎから七日後に清盛は権大納言に昇進した。
そして九月には時子の弟平時忠が遠流の出雲から召還されて職に復した。老衰の父時信はそれを喜び安心して永遠に眼を閉じた・・・。長女は清盛の妻、次女は白河上皇の皇子の母、娘運に恵まれた父だった。
2020/11/02