~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
乳 母 の 野 心 (三)
平滋子から誕生の憲仁親王が兄以仁を越えて皇太子に、という噂はしだいにひそひそと囁かれ、さても世の中は平家の為に造られてあるようなものと、いまさらに驚かされたその年に、七月末に摂政六条基実がまだ二十四歳の若さで病死した時は「さすが清盛公の御威光も婿君の寿命をのばすことは出来なんだ」と小気味よさそうに言ったのは、かねて新興貴族の平家に反撥を覚えていた公卿の誰彼だった。
六条基実は清盛の次女盛子の婿君だった。幼妻の盛子は十一歳の可憐な未亡人になった。
そのおそらく処女のままの未亡人に子のあるはずはなく、継子の基通は嫡子ながらまだ八歳の幼さでどうにもならず、故人の弟基房が亡兄の官職だった幼帝(六条天皇)に代わって政事を行う摂政の任務を拝命、また藤原氏族統率者としての“うじおさ”も承継した。
そうなると清盛に出来る事はわが娘のためにせめて亡き良人の所有荘園(田畑)の大半を獲得させることだけだった。
清盛の嘆きは深かった。それにもまして十一歳の未亡人は途方に暮れた。その不幸な姪を憐れんだ叔母の平滋子は、わが皇子憲仁親王の保育に当たる准母(天子、親王の母代ははしろ)として盛子を法住寺殿に呼ばれたが、これは保育係というよりお遊びのお守り保姆役であった。
やがてその八月下旬に年号が“仁安”と改められた。改元されると何事かあるような予感がする・・・まもなく憲仁親王が皇太子になられた。
「かねてのお噂どおりじゃ。これで六条(基実)を失われた殿と北の方の御愁嘆もうすれましょうの」
阿紗伎や汐戸たちも、うなずきあった。
だが ── 一部の殿上貴族たちの中には割り切れぬ憤懣も生じた。清盛を義兄とする平滋子の産んだ三の宮が立太子で帝位継承権を得られたが、その兄君の以仁王はついに陽の当たらぬ場所に置かれたのがむごい感じだったからである。しかも天皇が三歳で皇太子が六歳というまことに不自然なおかしさがあった。
その皇太子御所の春宮坊とうぐうぼう(役所)大夫たいぶ(長官)を清盛、ごん大夫(次官)を教盛が勤めた。
清盛はその翌月は正二位内大臣となって春宮大夫を兼ねる。
「殿はお身体が幾つあっても足りませぬな」
阿紗伎が北の方に言うと、
「もう四十九におなり、お疲れになろうに」
北の方はひそかに案じる。
だが清盛の昇進は行く所まで行かねばならぬように、その翌年(仁安二年)二月についに従一位に進み太政大臣(宰相)になってしまうと、口の悪い殿上人は「清盛公の五十の賀の祝いに後白河院の贈物であろう」と蔭口を言い合った。
幼帝は内裏で独楽こまをまわして遊んでいられるからには国政も朝臣の昇進もみな後白河院の院政によるものだった。
内大臣からついに宰相に進んだ清盛は威儀を正して衣冠束帯で昇殿することが多い、そのたびに装束筒を持って供に加わる美濃六平太は、西八条の雑舎ではたなどを織っているいとまもなく、孫の小六を連れて六波羅に詰めていた。
時子は佑子の乳母の汐戸を呼んで言われた。
「そなたの連れ合い美濃六どのも、このところ御用多くて、小六の世話も出来かねよう。なんなら西八条へ呼んで誰ぞに世話をさせてはどうかの、典子の乳兄妹ゆえ粗略にはいたさぬゆえ」
北の方のこまやかな思いやりに汐戸は嬉し気にはずんで答えた。
「おこころにおかけ戴き、まことにかたじけのう存じます。あの小六はまことに幸せ者でございますの、六波羅でもp侍衆に可愛がられて、じいの留守はさびしかろうにと門脇殿(教盛)春宮坊へお通いのお馬の杓持小姓にお取り上げ戴き、それはそれは大喜びで毎日お供衆に加わって居ります。ほんにありがたい事でございます」
杓持小姓とは、大将級の武将の馬に付き添って、水を飲ませる黒塗の長柄の馬柄杓を持って付き添う少年だった。出陣でない平常の供には模様の派手な水干に素足で、槍のように真柄杓を捧げ持って歩く。
「おお、それはまことに小六にふさわしい役じゃの」
北の方にも喜ばれて汐戸は面目をほどこして引き退った。
それから間もなく三月に入った。当時のその月はもう花の季節であった。そのある日、いそいそと汐戸は北の方の前に来て告げた。
「祐姫、このあした(朝)初の月のおしるし(初潮)をみられました」
「めでたきことよの、今宵は小豆の固粥かたかゆで祝うがよい」
固粥は姫飯とも呼ばれ、小豆を入れて煮てうす紅色にするのは故事に用いられた。
2020/11/04