~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
か ぐ の こ の み (三)
その七日のち、広元の教授に現れる日に小二条の大江家の白髪の老執事が西八条に使いに来て口上を述べた。
広元さま、お風邪にて引き籠られ本日は不參の儀お許し願います」
── 汐戸にそれが伝えられると、祐姫の先日の杞憂きゆが当たった気がして告げた。
「やはり先日のお帰りの道のお寒さからでございましょうか、これはお見舞いを申さねばなりますまい」
「お見舞いには広元さまお好きのたちばなの実をお届けして、汐戸」
橘の実は香久乃菓子かぐのこのみとも呼ばれた、後世の蜜柑である。それは厳島神社と共に平家と縁のある熊野権現のある紀州に実るのが早馬の荷で西八条に届けられる。広元にいつかすすめた時喜ばれた。
「はい、さようにいたしましょう。それではわたくしがお使いに参ります。でもお見舞いのお品だけでなく姫さまのお歌を添えて差し上げられませ。さぞお喜びになりましょう」
「・・・まあそのような・・・橘のお歌なら『万葉』の ── 橘は実さへ花さへその葉さへに霜ふれどいや常葉の樹 ── とあるものを、いまさら佑子にそれよりすぐれた歌は詠めようはずはない・・・」
「いいえ、橘の実ではなく、あの、そのお風邪をお大事にとお心こもりし一首、それが広元さまお風邪のなによりのお薬になりますとも、お歌でなければなんなりと白楽天のような漢詩でも・・・」
「いやな汐戸、ほんにじゃらけて(ふざけて)
佑子はいやいや乳母に言われて薄葉(雁皮紙)に散らしがきの筆をとると、いそいそと汐戸は、
「ではお文箱に」
平家の常紋胡蝶の蒔絵の文箱を取り出す。
「そのような、ものものしい文ではないに」
と ── よくよく御やうしやう(養生)あそばされ候たうに願ひ参らせ候・・・とだけ、それをしなやかに指に細く薄葉を折って結び文にして、
「これを橘の実の籠の中に」
と言われた。
(まあ、せっかくのお文にただそれだけ)
口に出かかったが、つつしみ深いこの姫がその短い文の中に千万無量の優しい心を秘めていられるのを、広元さまには必ずおわかりになろうと、思い返して橘の実を盛り上げた折敷おしきのなかに納めて、濃紺の袱紗ふくさで覆い、
「では、さっそく小二条に参じます」
北の方にも告げて許しを得ると供の雑色ぞうしき(家僕)に品を持たせて汐戸は二条北東洞院西の大江邸へおもむいた。その日は風もなく幸いあめ色の冬の日差しのとろりとさす日で、汐戸は楽なお使いだった。それでも女の足では手間取り、ようやく西八条へ戻ると佑子は雪丸を膝に待ち侘びていた。
「もうだいぶおよろしい御様子でございました。姫さまからの橘を手にされて風の熱もこれで下るとお喜び、その上その橘の実の間の結び文、じっと眺めて ── 風邪をひかずばこの短い文も戴けなかったなと仰せられました。ホホホ ──」
「まあ!」
佑子はさっと瞼を染めて長い睫毛を伏せた。
── 日を経て次の漢文講義の日には風邪癒えた広元が颯爽さっそうと若さの溢れる姿を現して佑子と汐戸を安堵させた。
「わが身に宿りし風邪の鬼は、かぐのこにみ(橘の実)の威力にて退散いたしました」
広元は姫と乳母に鳥烏帽子の頭を下げた。
いつものごとく文机の前に佑子と広元が向かい合うと汐戸はまもなく静かに立ち去った。
姫たちの稽古事は、それが手習いであろうと筝であろうとなんであろうと、その場には必ず付き添う乳母の役目を汐戸は放棄して、わが控え所へ用ありげに引っ込んでしまった。
── あのおふたりを、おふたりのままにして置いて差し上げたい・・・乳母の眼がないからとて、それをよきことにしてみだらがましきお振舞いなどゆめにもなさるおふたりではないと、汐戸はかたく信じている。
そのとき、雪丸をひきいた典子が姉の学習の聴講生になりたくて広い板敷を渡って行くのを汐戸は知らなかった。
2020/11/08