~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
あ ね 、 い も う と (四)
北の方のそのさりげない言葉にとどめを刺された思いの汐戸は、がっくり首の骨が折れたように黙然とうなだれる。
「汐戸そなたは平治の乱の最中、にわかに産気づいて生れし典子をとりあげし縁も深く、今はそちの娘安良井がその典子の乳母、それゆえにひそかに打ち明けしこの事、早まってみだりに他にはもらさぬようにの」
「はッ、仰せまでもございませぬ」
汐戸は一礼して膝でしさって北の方の前をしりぞき西の対への渡殿をたどる足もとも、あわれにたどたどしかった。
汐戸のひそかに胸に描き温めて来た、祐姫の“恋の成就じょうじゅ”を乞い願う愉しき夢も、いまはかなく破れ去ったのである。
どうしようもない運命の不可抗力、その前に汐戸は無残に敗北させられた。
もしおにれにも少しの勇気があって北の方の前で堂々と「仰せながら、広元さまはすでに祐姫と相思相愛のおんなかにございます」と言えたら・・・、いや、姫の乳母とはいえ御出家後も天下を圧する前太政大臣浄海入道殿の館の一使用人に過ぎぬ身に、いかでそのような発言力があろうかと、長い間の主従の封建思想に馴らされた彼女だった。
しおれて首うなだれたその汐戸が西の対の遣戸やりどを力無く開けると、奥から姉妹の姫のお声が聞こえる・・・。
その姉妹の声のする祐姫の居間へ汐戸が心沈んだままにふらふらと引き寄せられて進み入ると、姉妹の姫の膝近く雪丸がぐったりとうずくまっている。安良井が雪丸の食器の土器かわらけから何か薬湯やくとうの匂いの立つものを飲ませている。
安良井はそこに母の汐戸を見出すと、
「雪丸がもう年齢とし老いたとみえて、この頃なにやら心もとない様子と姫方御案じつえ、いま薬草を煎じて飲ませました」
「なんの薬草か」
紫苑頭しおんず、人参、甘草かんぞう、大をよく煎じ出しました」
「おろかな、それはひいさまお風邪のお折のお薬湯に差し上げるものではないか」
「さりながら姫さまのお薬を戴けば雪丸は必ず長生きいたしましょう。東の対の笠丸はそのお薬にも恵まれず、もうこの世から失せて雑色ぞいしきの手で棄てられましたそうな」
笠丸は動物をあまり好まれぬ東の対で老衰死、亡骸は汚らわしいと小檜垣が館の外に捨てさせたのだった。
「それに比べて雪丸は仕合せものよの」
汐戸はしみじみと言う。今その雪丸の房毛を撫でつさすりつ、いたわられる心細やかに優しいこの御姉妹の上に降りかかる運命の悪戯をつゆ御存じなく・・・と思うと、胸ふさがってその場にいたたまれぬ彼女だった。
2020/11/10