~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
青 春 の 幻 (四)
康信は老僕を供に従えているが、広元は素朴な学生風で一人だった。
ある日の帰り道も偶然一緒になって歩く途中、
「広元殿は入道相国の姫へ漢文を教えに行かれるそうじゃの。そのような噂を聞き申したが、まことでござるか」
と康信が言った。太政官庁の官吏たちの誰かが知っていたらしい。
「世尊寺伊行殿のたっての周旋で参上いたしたが、仕官後はいとまもなく、姫も女人としてはあらかた習得されたので、もう教授には参上いたさぬ」
「入道相国の姫たちは揃ってみな美しいとの評判でござるの」
「あの平家の栄華の坩堝るつぼで磨き上げれば美しく見えるも当然と存ずる」
と広元はこともなげに応じながら、その中でも特に身も心も天与の麗質珠のごとき祐姫のおもかげが恋しく胸に浮かぶ・・・。
仕官後まだ馴れぬ官務に追われるとはいえど、上は大臣閣僚より事務官僚に至るまで月に四回の賜暇しか(公休)がある。病気その他で諸暇法(欠勤届)も許されている。
広元は西八条を訪れることはいとたやすかった。けれども広元は訪れるのを恥じた。知識人の意識過剰の気弱さがこの自負心の強い若者の内にあるのだ。祐姫をひとときも忘れぬ恋慕に燃ゆる心が烈しければ烈しいほど、彼はそれゆえに西八条を訪れるのに羞恥を覚えて、あの館の門を勇気がないのだ。
── そうしたまだ少年のような純粋な初恋、しかもおそらく生涯のただ一つの恋と思うそtれに振り回される月日だった。
それは今日のいま三善康信から平家の姫のみな美しい評判などと言われると、口では軽く受け流しているものの胸は高なる。
── 彼は烏丸の通りで康信に別れると、そのままほど近いわが邸に帰る気はしなかった。
西八条へ! せめてひと眼でも祐姫の姿を見たいと心はやるが、すでに早春のたそがれのこの刻をなんの用もなく、ただ姫に会いたさに館を訪れる痴情の男となるには、彼の男の誇りと廉恥心れんちしんが許さなかった。
広元は恋情と廉恥の思いの二つを胸で争わせつつ、とつとつ思い悩んでしかも足の向くところおのずと西八条への道をたどっていた。
やがて西八条の館を囲む広大な築地ついじ(土塀)の上にそびえる楠のみずみずしく新芽をしげらせた梢が見え出した。
「おお、広元殿これはこれは久しくお会いする折もなかったが」
と彼の肩を叩かぬばかりに近寄ったのは、思いもかけぬ世尊寺伊行だった。
不意をつかれて広元が、とっさの場合の言葉もないうちに伊行は早合点して、
「貴君も西八条へか、それでは御同行いたそう。姫たちの新規のお手習用の手本ようやく成って、一日も早く差し上げたくこの時刻ながら参上いたすところ」
「いや、この近くでたずねる家が見当たらず、つい西八条のあたりまで・・・」
広元はうろたえる。
「それではことのついでに館へ立ち寄られよ。北の方はよくお噂なされ、広元殿も時折は訪れてほしい御様子じゃ。それのあの無邪気な典姫がのう、広元さまはなぜおあそびにお越しなされぬかと寂しがっておられる。今日はからずも貴君を同道いたさばこの伊行の手柄とあいなる」
どうでも広元を離さじとする伊行は、広元にとっては、まさにかたじけなき時の氏神であった。
この二人がやがて総門をくぐると館の廻廊の軒にならぶ青銅の釣灯籠には、星を連ねたように灯がすでに入っていた。
伊行に同伴されて広元が訪れると、伊行の言ったように北の方に心から歓迎されて、出居でいの間で夕餉を供されてのち、
「西の対の姉妹に広元どのに御挨拶にと伝えよ」
と侍女を走らせた。姫の教師の伊行、広元には北の方はこういう時も師弟の礼節を守らせる。
佑子が典子と連れ立ち乳母を連れて、久しぶりで相見る広元の前に現れた。
「まあ、ようやく広元さまお見えになられて嬉しい」
声をあげてはしゃぐにのは典子、佑子はつつましくはじらいの微笑で彼を迎えた。その双眸が濡れたように輝くなかに千万の言葉に代わる風情があった。
やがて時過ぎて二人が辞去した帰り道は、伊行の供の家僕の用意をしている松明に点火する必要もないほど、早春のうす月夜のほのかな明るさが二人の影を黒々と地に描いていた。
そのんかで伊行の声が広元の耳を突いた。
「広元殿は北の方に御おぼえおとめでたいの、やがて貴君を祐姫の婿君としてその学識才能を入道相国の御政道の面で振るわせたいとの北の方の遠謀深慮はさすがであるのう」
「伊行殿は夕餉に頂戴の酒が発しられたとみえる」
広元は笑ってみせたが身内の血はかっと熱した。
2020/11/13