~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
夢 は ふ く ら む (三)
めでたき春の朝霞
柳桜の色深く
錦の袂かをり来て
御幸みゆきを待つぞうるはしき
この曲は筝の師夕霧の良人伊行が裕子徳子姉妹の姫の御前演奏に特に選んだ“宮の鶯”の曲だった。
汐戸はその大事な曲の練習をさまたげまいとお居間の蔭の板敷の円座の上にひっそりと身を置いて、弦の音と歌にうっとりとする。
さらにまた“友千鳥”の曲がつづく ──。
満干みちひ絶えせぬしほの山
差出さしでの磯の友千鳥
君が御代をば幾千代と
声もゆたかに啼きかはす
この二曲とも天皇を迎えるにふさわしいと伊行が編曲したものだった。この友千鳥の歌は後世の江戸末期に吉沢検校の手で変形されて淡路島通う千鳥の曲の前唄に編まれたが、それもこの平家時代の「金葉集」の歌による。
筝の音の余韻を残して終わった時、ようやく汐戸が姿を現すと、なんと典子が姉君の筝を聞きに傍に居られた。だが姉妹を追い払うことも出来ずいずれはわかる事と、汐戸はさっきの小檜垣の言葉を伝えようと思うのだが、この筝を前に﨟たけて清らかな祐姫の姿を見ると、その胸を傷つけることをばおま無惨にお耳に入れる心辛さに汐戸は口ごもって言いよどむ。
「あの・・・御幸の日、みかどへの姫君方の拝謁のお順につきまして、あの、それが・・・」
とばかり、言葉がたゆたい咽喉がふさがってしまう。
その異常な乳母の様子をじっと見詰めた佑子がしずかに落ち着いた口調で、
「徳さまが最初に拝謁なさるのが順であろうの汐戸」
「は、はい・・・」
先を越されて汐戸はうろたえ顔を伏せて眼がうるむ。
その時、典子の声がした。
「あら、徳さまは祐さまの一つお下の妹、それが何ゆえ先に御拝謁なさるの?」
「は、はい、仰せどもっともながら、それはその・・・・」
汐戸は何と言うべきか、とっさの場合言葉の造りようもない。
「妹が先に拝謁ならば、この典子は寛さまの先にいたすのであろうか、汐戸」
「いえ、いえ、それは幼き方なればおふた方ごいっしょがおよろしいと存ぜられます。さようあちらへもおはかりいたしておきましょう」
汐戸は進退きわまっている。それを助けようとするのか、
「典さま、御幸のお儀式にはさまざまなおきてがございます。何事も母上の思召しに従いましょう」
佑子のもの静かな言葉が、汐戸の胸にじいんと浸みると、切なさに居たたまらない彼女はその場を逃げるように退いた。
そのあとにまた筝の音のひびくのを汐戸は聞きつつ ── 何事も母上の思召しにしたがいましょう ── と仰せられる祐姫も、なだその母君が広元さまを妹君の典姫へめあわせようとの思召しは御存じない・・・と思うと、拝謁の順どころかその問題が汐戸に重くのしかかる。
その事ゆえに、汐戸はこの日頃眠れぬ夜々が続いているのだ。
だが、ただ一つの望みはあのように姉君の祐姫を慕われ、ひまさえあればそのお居間に入り込まれる典姫が、いかに母君のお心づもりとはいえ、広元さまは姉君の恋人とすでに知りながら、その人との婚礼を承諾なさるはずはなかろう、北の方の御計画の実現はその点成功の余地なしと思える。
さりとて汐戸がそれをあけすけに、北の方に進言するのは主従の間を越えるばかりか、乳母のこの身が祐姫と広元さまの恋の手引きをしたように思い込まれたら、あの何事も生真面目な北の方はかえって祐姫の恋をいやらしく誤解なされようも知れぬ、それではかえって逆効果。
汐戸はそう思い至ると、これは乳母風情と違って北の方が御遠慮なさる位置の人に、祐姫と広元さまの純情を認めて戴き、典姫にはほかに適当な婿殿を物色させられるようおすすめ戴けたら、ものの道理をよくわきまえられる北の方、かならず御納得下さろうと思うと・・・わが女婿は大切になさる北の方ゆえ、長女昌姫の婿君花山院兼雅卿がひと肌脱いで下されたらと考えたが、兼雅卿は花山院家のお坊ちゃん育ちでどこやら頼りないお人柄に思えた。それに比べて次女の盛姫の婿君藤原基実公は摂政関白家の当主にふさわしい御立派な方だったが、幼妻の盛姫を未亡人に残して惜しくも早世なされた。ああこの婿君世におわさばお袖に縋れたものをと、汐戸は祐姫の恋の助力者の見当たらぬを悲しむ。
そうしたなかで目前に迫る御幸のために、祐姫の御衣裳その他で汐戸はきりきり舞いだった。
2020/11/15