~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
秋 の 夜 風 (三)
保元元年の初秋の夜嵐の如く、つかの間に吹き荒れて過ぎた戦いの敗者への苛酷な処罰は、九月二日までに全部完了した。七月二十三日に崇徳上皇讃岐へ。二十五日上皇に仕えし公卿たち佐渡島その他へ遠流。三十日源為朝、平忠正とその一党七十四人斬られる。八月二十六日強弓の武者為朝は逃亡中捕えられて伊豆大島に流された。敗戦直後に舌を噛み切って自決したのは乱の主謀者前左大臣藤原頼長だった。彼はつい四年前、清盛の父忠盛の死を惜しんで、「富は巨万をかさね、奴僕ぬぼく国に満ち、武威人にすぐ」と故人を讃えたその人だった。
── 清盛北の方時子はそれら悲運の人々の供養のために、六波羅居館で“賑給しんごう”を行った。
賑給とは毎年五月に朝廷で、洛中の貧しき人々に米塩を給与する慣例である。その時は富める公家、武家でも各自その館から米塩を窮民に施すならいだったが、時子の発議で六波羅ではその十月に臨時にそれを行った。けれども人々はそれを供養とは思わず、保元の乱の功労によって清盛が播磨守に、異母弟頼盛が常陸守、同教盛が淡路守に任ぜられた喜びゆえの恵みだと思い込んだ。それほど平家方には戦功の報い大きく、それに反して血の涙で父や幼い弟たちを殺した下野守義朝は、わじかに左馬寮の次官格の左馬権頭ごんのかみ兼任を任命されたに過ぎず、源家には褒賞があまりに軽いと思えた。
この幸運な六波羅に翌年春、吉兆があった。北の方時子に妊娠の兆しがあったのだ。去年の二月出産のあとだから年子である。生めよ殖えよ、栄ゆる平家一門は子福者であるべきと、清盛は上機嫌だった。
「このたびは、そちの腹から姫を生むがよいぞ」
彼は真顔で妊る妻に注文した。今までの昌子も盛子もあいにく生さぬ仲の姫を養わせている。清盛はそれを気の毒と思う。重盛と基盛は異腹、幸い宗盛と知盛、重盛も時子の実子だが、まだ彼女から姫の生誕はなかったからだった。そうした良人の心づかいは時子にもわかった。
── 清盛北の方の機微な問題の相談相手はいつも阿紗伎である。
「いつぞや池の禅尼さま、六波羅の女人はみな男腹よと言われたが、この身は姫を生めぬさだめであろうかの」
それは池の禅尼がまだ忠盛未亡人にならぬ以前の姑ぶりの憎まれ口を思い出したのである。
「そのような女のさだめばございませぬが、世にはまた姫のみ続くので和子が欲しいとの歎きも聞きまする。こればっかりは・・・」
「それにしても、殿のひそかにお手を付けられた女人たちからは、よう姫のご誕生よな」
昌子も盛子もおれである。
「さあ、それはまことに・・・」阿紗伎は自分の責任のように肩をすくめたが、しばらくして、
「その女人たちは、御美男で雄々しい六波羅の殿を心からお慕い申し、松にすがりまつわる蔦のようにしん・・からなびいて女身を燃やしたからでございましょう・・・」
「なに女身を燃やすと・・・」
北の方の頬に血がのぼった。
阿紗伎は卑猥な言伝えをついに口にしたのである。
「では六条家のあの藤波局とやらも、殿へみずから恋いこががれてのことといやるか」
「さようでございましょうとも、いちど嫁いだ良人に死別後、大蔵卿の奥に仕え、御息女お輿入れの六条家に移りましてのち、名高き六条の殿のお姿に胸ときめかしての触れなば落ちん風情が・・・殿のお眼についたからには、さぞかし秘められたおねやで燃え尽くしたことでございましょう」
ホホ──と阿紗伎は声立てた。
「それをこの身にも真似よとすすめるのか、そなたは」
北の方に睨まれて彼女は「いえ、いえ、めっそうもない」と狼狽した。
「その藤波局は・・・その後いかがなされてか。わが殿との縁は切れてあろうの」
あの保元の乱の前から清盛の身辺はやだならぬ緊張で、女性問題を起こすような余裕のないことは時子も信じてはいたが、いまふたたび気にかかってしまう。
「はい、わたくしの耳に入りましたのは、ただ手離されたあとの盛姫さまを忘れかねて日夜歎かれたとの噂でございます」
「この館で大切に育てられても、生みの親には不服なのじゃのう」
時子は生み親の執念を知らされて、つまずいた思いだった。
「まことに愚かなと存じますが、あの方には盛姫さまだけが天地でただ一人の手頼たよりなのでございましょう。六波羅の北の方は和子さまもたくさんおありなのに、よそで生れた子までお取り上げにならずとも逆うらみをなさるのも母心でございましょう」
「好んで取り上げたのではない、殿もお手もとに引き取りたいと阿紗伎にお頼みなされたのではないか
「さようでございます。殿のおたねをあちこちにお隠ししては置けませぬゆえ当然の御処置でございます。この六波羅で家来の娘としてお育ちこそお仕合せのはずでございますに」
だが時子は憂鬱だった。よその女に生れた良人の子を、わが実子とへだてなく養い育てるのは、その生母に感謝こそされても、わが子を取り上げられたと怨まれるとは思いがけなかっただけに、うかう千万に気がして気が滅入ったのである。
北の方の御機嫌を損じて阿紗伎はおろおろしたが、幸いそれなりその場かぎりに、それについて再びどのような言葉も洩らされず、昨年、北の方のお養い子となられた、ひ弱な盛子への時子の態度も変わらず優しかった。阿紗伎はホッとした。
まも0なくその晩春に、清盛の嫡子重盛と中納言藤原家成の姫との婚礼が行われた。重盛も二十歳、従五位中務権大輔である。その小松谷の居館に北の方を迎える時期であった。
嫡子の妻の父家成とは清盛も親交があって、この縁談はすらすらと進行したのである。
「次は基盛だな。あれには時子の実家の妹滋子を妻合めあわせてはどうか」
「まだ急ぐことはございますまいが」
異母妹滋子も十六歳である。基盛には年齢下の叔母に当たるが、当時はそうした縁組はよくあった。妻の実家の後見役として、かく気を使う良人の優しさに触れると、時子は藤波局など忘れがちで仕合せだった。

2020/10/06