~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
雪 明 り (三)
戦いは六波羅軍勢の勝利に終わった。
謀叛の主役藤原信頼は内裏占領に敗れて斬られ、義朝はいっとき六波羅の門近くまで攻め寄せたが、追い払われて六条河原で戦闘中、同族頼政に平氏側に寝返りされて、勝敗は明らかになった。
それで一息した清盛が妻の寝所へに、生れたばかりの典子の顔を見に来て告げた。
「天皇は今日内裏に還御される。そなたも産後の身でなくば、拝謁させたかったが残念じゃった」
だが・・・時子はいささかも残念でなかった。
年は明けて一月十日に改元、“永暦えいりゃく(1160)と変わった。
こうの殿(義朝)のおしるしが獄門台にかけられました」
その日、時子は阿紗伎から聞かされた。
「討死なされたのか、右衛門督(信頼)に加担されたが不覚とはいえ、いたましい」
自分も平家の頭領の妻だけに、源氏の頭領の士は人ごとならずいたまれた。
源平二つの武士団の侍たちの折烏帽子は
平家は右折、源氏は左折だったが、やがては右折の折烏帽子のみの世となるとも思える。
「討死ながら武士の御本望とも思われますが、それがまことに御無念なお最期・・・戦場をお逃れなされて尾張の野間の豪族長田おさだ忠致さだむねと申す代々の源氏の家人けにんのもとへひとまず身を隠されたうちに、その忠致逆心をを起こしてp湯殿で御入浴の頭の殿を襲って首打ち落とし、六波羅へ持参いたしたのでございます」
時子は愕然とした。
「その尾張の長田なにがしとやら、さじかし六波羅より褒賞にあずかるつもりであろう」
「はい、『一国たまわりたき手柄』とか誇りましたそうで」
「それで、わが殿その一国をお与えなされたか」
「いいえ、きつい御立腹、汝旧主をしいしてその首を敵の平家に差し出すとは悪逆無道の振舞い、もし汝を賞して一国を与えなば平家末代までの恥辱、亡き義朝殿への手向けに汝の首を献げんと仰せられてお傍の侍にお斬らせになりましたそうな」
阿紗伎は居館の表の公事のことは伝え聞きであるが、清盛の言葉などは彼女はいい気持で告げたくなる。
「さすがにわが殿、ようなされた」
悲惨な末路だった義朝は東国の単純な武士、清盛は武士であっても政治的手腕を持つゆえの勝者と思うが、時子はその良人が半面にこうした直情径行の感性があるのが嬉しかった。
このように、さまざまの事が起きていては、彼女はいつまでも屏風、几帳きちょうをひきまわしたまかに寝てはいられない気がした。
時子が産殿を出て、わが居間に戻り、うちぎ姿で晴れやかに良人を迎えた日は、あらかた戦乱後の処理を済ませた清盛がやっとくつろいでいた。
「あの弓矢の騒ぎの中でもそなたは安産、戦いもみごとな勝いくさで終わった。まずは祝着しゅうちゃく至極、じゃが一つだけ困ったことが出来た」
「それはお親しかった信西入道を失われたことでございましょう」
時子は推量していた。
「まあ、それも致し方ない、信西にも行き過ぎがあったからな。同時にその子息たちみな遠流おんるじゃ、昌子と許嫁いいなずけの約束だった成範しげのりも下野国へ配流となっている。いずれは召還されるであろうが、それにしてもだな」
その良人の言葉のうちに、時子はすべてを察した。信西のときめいた生前中のその息子と、首を斬られた父の息子成範では、もはや清盛息女の婿としての価値は一変した。それゆえに婚約解消は良人の当然の処置であろうと。
「昌子はまだ九歳、婚約も何もわかろうはずもなく、そのための心の痛手はございませぬが仕合せ・・・」
その昌子はさぬ仲の時子をまことの母と慕い、昨年末に生れたばかりの典子が乳母に抱かれているのを見ると、自分の手にも抱かせてねとなだる、いとけない童女だった。
「さてさて、戦乱と申す殺し合いは男同士の間だけでなく、女の運命をも狂わせますの」
時子は吐息をもらした。
「そりゃあ止むを得ぬな、好き好んで誰も戦うわけではないが、男には功名心があるが、その蔭では良人や息子を失う者数知れずよ、それどころか、東三条の夜討ちではあまたの女房たち逃げまどうて炎に巻かれ、井戸に飛び込み重なり合うて生命を失ったという、あわれよ」
時子は聞くだに身ぶるいがした。それはあの事変突発の夜から予想していただけに・・・。
「では、この六波羅も火をかけられ、敵が攻め入りましたなら、姫たちも私も侍女どもも、どのような地獄でございましたろう」
「まさしくその通り、まさに天佑神助よ。常に兵馬を養い置かねばならぬこの六波羅だけに、万一戦火を蒙る事無きにしもあらずじゃな。其の為にはそちや五人もの姫たちの避難に備えての館もいずれは構えねばならぬの」
「それは何より願わしきこと、五人の姫もやがて生い立ち美しくねびまさらせたいと思うにつけ、兵馬にかかわりなき優美な館で心を養わせ素養を身に付けさせねばと心得ます」
清盛は妻の姫教育の意見に大いに同感した。それは時子が母として姫たちの“女の幸福”を願う気持ちとはいささか内容が異なっていた。やがて姫たちを政略結婚の美しきおとりとして思うままに、との野心が意識の底にあったのは否めない。
けれども──そうした父親の娘にかける計画は、いかなる時代も権門のあるじの、みな描く望みで清盛だけではなかったのを時子は知っていたから、彼女は全面的に反対は出来ぬが、それによって娘たちがみすみす不幸に陥らぬように、是非とも母としての自分が安全弁の役割をつとめなばならぬと決心していた。
── この日の清盛夫婦の問答によって、清盛は西八条に明けてあった広大な地所に、妻や娘たちの為に優美な邸宅を構えようと計画したのだった。
2020/10/09