~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
闇 の 闖 入 者 (三)
翌朝早く入道相国夫妻は福原へ、そのお供に西八条の家臣、阿紗伎をはじめ北の方の侍女たちも従ったので、館の中はもの静かになる。
東西の対の姫たちも、その乳母たちも御幸の前後の緊張から解放されての休養とあって、夜は姫たちも乳母たちもみな早寝、西の対屋では典子はもう安良井が付いて根間のしとねの中に入った。
汐戸も祐姫の寝間の繧繝縁うんげんべりの畳二畳を重ねた上に唐錦の御茵を二重に敷いて、まだお居間で御書見の祐姫をお迎えにと対の広い板敷を渡る時 ── 対への渡殿に男の足音が無遠慮に高く響いた。その足音はしだいに対の入り口から妻戸に近づいて来る。
妻戸の両開の扉は昼は外側に開け放って板敷奥の遣戸やりどだけにしておくが、夜は妻戸はかたく閉めて内から掛け金でとめておく。
やがて ── その妻戸を叩く音がした。
この夜、そも何者かと、汐戸は身がまえて紙燭しそく(油に浸した紙こよりの束)の灯を手にかざして妻戸の前に近づくと、そとから男の声がする。
「開けてくれ、ほかならぬ勘解由かげゆ小路こうじ麿まろじゃ」
えっと汐戸は驚かされた。それは勘解由小路の大邸宅に住まわれる花山院兼雅卿、一の姫昌子の良人である。ついきのう帝の御幸に供奉された右兵衛督sであり、この対屋におわす祐姫の義兄に当たる。
さもなくば ── 入道夫妻の留守の日の夜を、姫とその乳母と侍女のみの女の城のこの対屋の妻戸を開けられはせぬ。中門廊に詰める宿直の番士たちもこの花山院の殿とあって通らせたとは思うが、いかに義兄とはいえこの夜、対屋の姫のもとに何の急用があっての訪問か、少々非常識と不審でもあったが、いたし方なく妻戸を開くと、渡殿の青銅の釣灯籠の灯明りで花山院兼雅と連れ立つもう一人の男の姿が汐戸の眼に入った。
「今宵同伴せしは近衛の少将冷泉隆房卿よな。昨日の御幸に供奉せし折、祐姫の麗容に接し魂を奪われ、さっそく今宵見参けんざんいたしたいと、たっての望みもだしがたく麿が伴い訪れた次第、祐姫のもとに案内されよ」
兼雅が祐姫の義兄の位置を振りかざしての言葉に、汐戸ははたと当惑した。
昨日の御幸の供奉武官として初めて祐姫を見ると、今日のこの夜に早くも姫の義兄の兼雅をそそのかしての訪問、なんと図太い男と、まず汐戸は不快の念を覚える。
釣灯籠の灯の下のその近衛の少将は肉付きのよい大男、その容貌は公卿の似気にげなくあぶらぎった顔に一抹の気品もなく、大きな鼻、さがった目尻の横皺のあたりに卑猥の感覚がにじみ出て、まさしく稀代きだいの“き者”と見えた。
光源氏が“色好みの君”と称されたのは、彼の恋愛にはたえなる詩情と抒情美精神が溢れるからであるが、その反対にそうした好ましい風雅な精神面なしに、ただ男性の欲情にかられて美女を快楽の器として獲得しようと、恥も外聞もなく追いまわす輩を軽蔑して“好き者”と称した。
その好き者がいま祐姫に近づく手段に彼女の義兄を利用したとは、好き者はこうした狡智が付きものらしい。
姫の居間に入る男性は学業の師の伊行これゆきと大江広元だけで、それも白昼である。まして夜の刻になんの必要もなき訪問の男の出入りは断固として拒むのが乳母の責任である。だが残念にも勘解由小路の殿が連れ立たれたのでは、むげにも扱えぬ。
「姫さま、御幸のあとのおつかれにて、早う御寝ぎょしあそばされるはず、ごようす伺いましょう」
汐戸は思案にあまって、ともかく祐姫の居間に ──。
姫はまだ御書見に余念がない。
「ただいま、勘解由小路の義兄君あにぎみ御入来、近衛の少将隆房卿をお連れになられ、姫さまにぜひともお会いになりたき旨しきりと申されます。いかがはからいましょう」
祐姫には思いがけぬ来訪者への驚きと当惑だった。
「義兄がこの夜、なんの御用であろう」
「さあ、そrが、あの・・・隆房少将が御幸の日に姫さまを御覧になっての御執心・・・今宵も姫を眺めたいとの思召しのようでございます」
汐戸の言葉に身ぶるいするほど、美しい眉をひそめて祐姫はきっぱりと、
「まあ、なんとむげなる御たわむれ、さようなお遊びはこびびを売るをなりわいの白拍子しらびょうしのもとへ行かれませと、汐戸おことわり申し上げよ」
「仰せごもってもに存じます。その通り申し上げて妻戸をぴそりと閉じれば、この汐戸の胸もどのようにすうとこころよきことでございましょう。なれど・・・口惜しきは勘解由小路の殿の北の方は祐姫の姉君なれば、そのお義理合もこれあり・・・」
祐姫もはたと困りはてられる。
「姫さまそのお義理ゆえに、一応はお通しいたし、この汐戸がいかようにも計ろうて、お早く御帰り戴くといたしましょう」
心さだめて汐戸は二人の闖入者ちんにゅうしゃをようやく導くと、隆房少将は得たりやおうと、酒気を帯びた息をもらしてむずいむずんと祐姫の傍近く無遠慮に座を占める。
「これはまた一段と近まさりの天下一の麗人でおわすの! かかるうるわしき姫がこの館にいまだ処女おとめのままに残り給うとは、わさにわが幸運よ」
はやわがものにしたような、いやらしい表情で祐姫の袖を捕えようとすると、すばやく姫に身をかわされたが、いささかも照れずニヤニヤと笑う。
「隆房少将、恋の歌でもせられよ」
脇で花山院兼雅がけしかけると、やおら少将は扇を口にかざしつつ、
  夢のうちに逢ひ見ん事を頼みつつくらせる宵は寝むかたもなし
と西の対屋にひびき渡る大声で誦したのは「古今集」の読人知らずの恋歌である。
それを聞くと、この好き者の夢の中にでも祐姫が現れてはけがれると汐戸は総毛立った。
「祐姫、御幸の日のあの見事な筝の音を忘れがたい。今宵ここで奏して聞かせ給わぬか」
天下の麗人に対して少将の図々しさも天下一だった。
「姫さま、御幸の日に奏でられ市は“村雲”の銘あるおろそかにはなりませぬ筝ゆえ、琴柱ことじをはずし塗籠ぬりごめに納めてございます」
汐戸は敢然と拒んだ。
その時、小さな足音が軽くひびいたと思うと、忽然と典姫が現れた。お寝衣ねまの白平絹の小袖に淡紅の帯を前に結びたらした末の姫は、まだ仇気なき姿だった。
「姉君のお居間より時ならぬこの夜、何やら騒がましき男の声に典子は眼をさまされて、もしや物盗りが美しき姉君のもとに忍び込みしかと寝所を抜けて参りましたら、まあ、勘解由小路の義兄さまが・・・」
末ッ子といっても、もう十三歳のおしゃまの口上はまことにあざやかであった。
「それは眠りをさまたげたの」
と、さすがに兼雅は鼻白んで、
「じつはな、これなる近衛少々隆房卿に祐姫を訪れたいとせがまれてな」
典子はその少将をじっと睨んだ。その視線には“嫌な人”という敵意があった。
平家一族はみなそれぞれ美男美女の系統である。兄弟も数ある従兄弟てぃもみなそれぞれ気品を備えた貴公子である。それを見馴れた眼には異様であったろうが、あえて男子は眼鼻の美醜にはかかわらぬと知ってもいたのは、家臣の武士の中には少年で保元、平治の乱に初陣、矢で片目を失い、刀で頬に傷痕止めたのも少なくはなかったからである。けれどもその顔には犯し難い忠誠心と武士の恥を知る生活に鍛え上げた威厳が備わっているのであるのを、典子は感じ取っていた。
だが、近衛の少将にはその美しい精神の陰影は皆無だった。思うに近衛府の少将」ちは申せど、要するに胡簶やなぐいを背に手に弓を構える形式の天皇警護の随身たちの上に立つだけの公卿の一人に過ぎないと思われる。たとえ弓矢は持つ事なくも、あの大江広元のように学問に鍛えぬかれた智識人の人の心を打つ容貌とも違う。
この少将殿はいわば物盗り同然、物なら祐姫を盗みに来たこの夜の闖入者と典子は察した。
「御幸のあとのお疲れもあるのに、なぜ汐戸は姉君を寝所にお送りせぬか、うかつなことよ」
「おお、これははからずも小姫ちいひめの御機嫌を損じた。今宵はわれら退散いたそう」
兼雅はほうほうのていで、やっと立ち上がった。汐戸はホッと胸撫でおろした。
典姫の乳母良井はその場の光景を遠くから見守っては居たが、あえて姿を見せなかった。
220/11/ 21