~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
歎 き の 乳 母 (三)
ややあって、汐戸はようやく悲しい顔を上げて、
「それは姫君御入内ともなれば、御正室北の方の御実子ならではと存じまするが、それにしても、いつぞや小檜垣どのが北の方に『姫君おひと方はぜひとも御入内を』とさかしらくちを申せし折、姫をどうでも入内などとは浅ましきこと仰せられたと承るまするに・・・それが・・・」
「それも仔細あってのこと、法皇さまにはしだいに平家の御威勢をおもしろからず思召される御心底、いつなんどき平家を倒そうお気持ちにならるるやも知れず、それを思えば、今上きんじょうさま、建春門院(滋子)さまを生母となさるるとはいえ、今一つきずなを結ばねばとの入道相国さまのお望みを、北の方も御承知とあって、それには女御に平家の姫を、やがては中宮にもとお思案あそばすは当然・・・」
「おお、ごもっとも、それこそ平家御安泰のためには願わしきこと。したが祐姫さまにもこの汐戸にもいかで徳姫さまと御入内を競う気持などございましょうか、それに祐姫さまにはすでに心さだめられり方がおわします」
汐戸はいまは敢然と言い切った。
「もしやそれは祐姫の漢学の師大江広元どのにおわさぬか」
「これはさすがに阿紗伎さま、あれほどつつましくなんの浮いた噂にものぼらぬお二人のお心通うをお察しなされましたか、お二人の間ははたの見る眼にもいじらしいほど清らかな美しい恋でございます」
「そうもあろう。したがその恋の成就は無理でありましょう。広元どのは学問一筋で御仕官も遅れ、ついこの春少外記しょうげきの御昇進あったばかり、権中納言の近衛少将どのとでは格段の差、それに北の方のお心の中には、やがては広元どのをお末の典姫さまの婿君に迎えられてこの西八条の同じ構えのうちにお二人のお棲居を建てて、お膝元におかるるお心組み、それまでに広元どのを今上の侍読じどくにも進め、平家との釣り合いの取れるようにとの御算段、これは阿紗伎のひそかに知るところ、汐戸どのはなにも御存じなかったか」
「はい、そうまで委しくは存じませぬが、北の方の典姫さまへの思召しを伺って以来、この身の思案に暮れておりましたに、さらにこの度の隆房少将のこと、もつれにもつれた糸の綾を解きかねて胸もふさがりまする」
「その心中ごもっとも、祐姫の恋路を断って、あの好き者の少将どのの北の方にとは無残なこと、それというのも祐姫があまりにお美しくお生まれなのがわざわいのもととも申そうか、おいたわしい」
「そのおいたわしき姫の乳母のこの身はどういたせばよろしいか、お教え下されよ。もう気が狂いそうでございまする」
「そう申されるからには、この阿紗伎、心を鬼にしてお教えいたそう。よく聞かれよ、六波羅武士はいつにても平家のためには、おのが心を殺さねばならぬ・・・このたびの祐姫お輿入れをそなたがおすすめすることこそ、それぞまことの御奉公。この道理をわきまえて汐戸どの頼みまするぞ」
阿紗伎は円座をおりて板敷に手をついた。
「阿紗伎どの、この汐戸は祐姫さまの九つのお年齢からお付きいたしてこの年月日、姫のお仕合せを祈って心を砕き身を粉にしてまいりましたはなんの為、このような不幸な御運を祐姫さまにこの身が押しつけるが道理とは、わかりませぬ。わかりませぬわいなァ・・・」
汐戸は身悶えしてよよと泣き伏す。
── その時、阿紗伎と汐戸の相対する控え所の灯影の届かぬ板敷の暗いもの蔭から仄白いかぼそい姿が、しおれてうなだれる花の消えるように遠のくのだった・・・。
それはさきほど汐戸に寝所に送り込まれて、しとねのなかにあっても眠れぬ悲しみに沈む佑子が、いっそ乳母のもとで、ひと夜を共に泣き明かしたく、白の小袖こそでの裾を引いて訪れると、思いがけない阿紗伎の声に、はっと立ち止まって隠れたまま、両人の語り合いのほとんどを耳に入れて、いま汐戸の泣き声をあとに足音を忍ばせて立ち去る姿だった。
2020/11/24