~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (八)
汐戸が西八条へ帰ったのは夜に入ってからだった。
さぞかし祐姫さまは案じられてお待ちかねであろうと心せかれて西の対へ急ぐと、お居間の春の灯の下に姫は憂愁の霜にえた花のように汐戸の眼にうつった。
今日の報告をまずどう切り出そうかと思案しているうちに、
「お眼にかかれたの」
と、姫からうながされる。
「は、はい、吉田の里へお親しい三善康信さまと御散策にお出かけにて・・・」
に始まり ── 牛車で吉田の里の雨宿りに向かうところに・・・話は進み、
「なにしろこの汐戸、あのあたりに参ったこともなく心細いかぎりでございましたが、三善家の家僕が小高い丘の上の庵のまわりは馬酔木あしびが茂っているというのを目じるしの案内にて・・・」
その時・・・祐姫の眼に驚きの色が動いた。
「馬酔木が・・・」
「はい、それはよく茂り葉かげにまだ残る白い花房が見えまして、建物は荒れても筧が水を落し風雅なたたずまいにて ──」
「馬酔木の花も筧の水もいまだに絶えぬとは・・・」
姫の無限の感慨の籠った声音こわねにハッと驚かされたのは汐戸だった。
「これはしたり、姫さまのお育ち遊ばした吉田の里の比丘尼寺の跡とは!」
「西八条の館も知らず、庵主さまのおあとを継いでいま御寺を守ってあれば、俗の世のこの憂いも知らずにあったものを・・・」
やるせなく伏し沈まれる。
「広元さまがその比丘尼のお寺の跡に雨宿りなされたのも、これぞ尽きせぬ御縁でございましょうか・・・」
汐戸は感きわまる。
「して・・・広元さまに汐戸、この佑子の心の奥をお告げいたしたであろうの」
「それを怠ってなんといたしましょうぞ。帰りの道はお疲れの広元さまを牛車に無理にもお乗り願って、車のきしむ音に紛れて外にはもれぬを幸い ── たとえ冷泉家へお輿入れ遊ばそうとも、お心は生涯広元さまに ── やがて六波羅の牡丹の宴にての筝の音は、姫さま清らかな処女おとめの日の最後のお名残りを込めて広元さまにささげられますると申し上げると ──」
一息ついてから、汐戸は、
「広元さまは、祐姫になんの罪科つみとががあろう。すべてはこの広元の不運よ。さればそのつたなに運を歎き悩みに悩みぬいての果ての救いを待とう。これはあの庵に仮住みの西行法師がこの身への貴きさとしであったと仰せられました」
「えっ、歌のひじりの西行法師があのみ寺の跡にいっとき宿られて、広元さまにお会いなされてとは!」
さすがに祐姫は汐戸より西行への認識があった。
「広元さま、西行法師のお訓しどおり一日も早うお悩みの果ての救いに雄々しく立たれませ、佑子の祈るはそれのみ、広元さま」
よよと祐姫は泣き伏した。
220/11/29