~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
雪 丸 あ わ れ (三)
同じその宵 ──。
北の対の時子は先頃の福原のあわただしい往復の疲れやその後の心をわずらわわす事どもの心労もあって、春の風邪心地で夕餉の食欲もなく、薬湯やくとう服用後大事をとって寝所に早く入られた。
北の方が早寝なので侍女たちはしりぞき、御寝所の次の間には阿紗伎が控えているだけで、北の対屋は宵からもう夜半のようにしいん・・・と静まっているなかに、
「母上、母上さま」
と呼ぶ声はたしかにやんちゃな小姫、北の方のお居間に姿がないので探していられると ── 阿紗伎は立ってその声の方へ進むより早く、姫はせき込んで入って来られた。
「母君は風邪気味にてもうおやすみなされました」
「重いお風邪ではなかろうの、この朝おすこやかなようであったに」
「はい、お疲れもあってのことゆえ、このひと夜、ようおやすみ遊ばせばお疲れもなおりましょう。典姫さま、母君へは明日ゆっくりとお会いなされませ」
「明日までは待たれぬ。大事なこと、いそいで母君に申し上げたい」
典姫はさっさと寝所の几帳きちょうのかげに入ろうとなさるのを追うたが間に合わぬ。ことここに及んでは仕方がない。乳母の安良井も付き添わずお一人で忍び込んだような典姫の振舞いは、いかにも思い詰めた一心のようで、阿紗伎も押し止められなかった。
── 几帳のかげの臥床うつらうつらとまどろみかけた時子は、
「母上、母上さま」
とゆり起こされた。
寝所の隅のたけ低き切灯台のあかりで枕元に浮かぶのは、小姫が日頃は可愛らしいまだ幼げな丸い眼を釣り上げたような顔である。
「これは典子、なにごとか」
「雪丸が死んでしまいました。母上」
「なんとそのようなたわいにないことか、もう年経た狆ゆえ寿命であろうに」
「いえ、いえ、寿命ではございませぬ。悪者に蹴殺されました」
「えっ、この館の外でならともかく、西の対にそのような曲者の居ろうはずはない」
「それが忍び込みました」
几帳の中でそうした母君と姫のさなかに、ようやく安良井が息せき切って顔色を変えておろおろして現れると、阿紗伎は、
「安良井どの、姫さまここまでお渡りを気づかぬとは、そなたに似合わぬ不稔ぶねんなことよ」
「は、はい、今宵の騒ぎでうろたえ居りますうちに・・・」
この二人の言葉を几帳の奥で耳にした典姫は、
「典子の母上へのお話しのすむまで、阿紗伎も安良井も、遠くしりぞいて遠慮いたすがよい」
小さい主人らしく威厳を示したきびしい命じ方だった。
「は、はい」
両人は顔を見合せたが、ともかく北の方が眼に入れても痛くない御寵愛の小姫なら寝所に踏み込まれても観念なさろうと、二人はわざと足音高くさせて次の間のその次の板敷の円座の上にしりぞいて息を詰めた。
── 几帳のかげの臥床に半身起こした時子はさっきからあきれ果てたように小姫を眺めて、
「して姫たちの対屋になんとして悪者なぞが忍び込もうぞ、門には衛士えじたち、中廊には日夜侍たちが詰めているに・・・」
「その衛士も侍たちも止める事の出来ぬ悪者が祐さまのお居間にまんまと忍び込みました。それは隆房少将と申される方」
「ホホ、それは悪者どころか、佑子と婚約をかわされた方、佑子を訪れられたのであろう」
「まあ、それでは安良井の申した通り、この典子も知らぬ間に姉君と婚約されたことはまことでございますか。ああ! どうしたらよかろうか!」
典子は身悶えした。
「典子にもいずれ知らせるつもりじゃったが、やがては義兄あにになるお方ゆえ、かりにも悪者なぞとは口にしてはなりませぬ。人の聞こえも悪いに・・・」
「婚約かわしたとて、祐さまにあられもなきみだららなたわむれをなされるのを雪丸がとがめて吠えついたを拳で打ち叩き、あげくのはてに蹴鞠のように蹴り飛ばして雪丸を殺して卑怯にも逃げ失せるお人を、なぜ母上は祐さまの婿君になされます」
「そ、それは雪丸が畜生の悲しさで見さかいもなく隆房卿に無礼をいたしたゆえであろう」
「母上、祐さまのお胸の内は、未来の婿君としてさだめられた立派なお方があるのを御存じないゆえに、あのような狆殺しの近衛の少将などを」
と言いかけると時子はびっくり仰天して、
「そ、その佑子の勝手に胸にさだめた人はそも誰か、典子」
きびしい母の声だったが、典子はいささかもひるまず、
「母上もお気に召していられた大江広元さまでございます。あの方なら祐さまもどのようにお仕合せか、この典子もよろこんでお義兄さまと甘えてなつきましょうに」
時子は愕然がくぜんといて、しばらく声もなかった。ふいに足許あしもとをすくわれた感じで気も転倒した。
── 母上もお気に召していられたと、典子のまさに言う通りその大江広元こそは、いま眼の前の典子の婿にとひそかに計画していたはずだった。それが見事に引っくり返されたこの現実に直面して、失望と落胆と、そして佑子の恋愛に気付かなかった母のうかつさにも自らが腹立たしかった。
しかも、あの汐戸はおそらくそれを承知で主従の掟を守って苦悶しながらも沈黙していたと知ると、同情はしても水臭い気がして情けなくもある。
ともあれ、時子は敗北感に襲われて打ち沈み、にわかに風邪の悪寒おかんをさえ覚えて、はたと枕に伏した。
「母上、典子一生のお願いでございます。姫の寵愛せし狆を蹴殺した者は許せぬと隆房少将と祐さまの婚約を取り止めなされて、大江広元さまと祐さまの婚約を結ばれるようお計らい下されませ」
典子は打ち伏した母の肩を双手でゆすぶる。
末娘とて過保護に甘えさせた典子の振舞いもこの夜の北の方には堪えられず、枕に伏せた顔をあげて、
「もうそなたもがんぜない子供の年齢ではないに、なんという聞き分けのないことを言いやるか、なさけなや」
「母上こそ、もう大人のよいお年齢で御分別ふんべつもなく、あの恐ろしい狆殺しを祐さまの婿殿になどお考えとは・・・」
── 「典さま!」、几帳の裾から汐戸が蒼ざめた顔を出した。ついさっき西の対へ帰ると、ここに駆けつけたのである。 
2020/12/01