~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
蝕 ま れ た 花 (四)
その邸の、裏門から出入りが便利な広元の書斎へ伊行が近付くと、そこには人の気配もせずしいんとしている。
── まだ帰られぬのか、それとも母屋おもやの方かとぐるりとまわって邸の玄関へ出て声をかけると、老家従が現れて恐縮のていで、
「広元さま先日御同僚の三善康信殿と洛外御散策中、時ならぬ雷雨にあわれ、お帰りの途中、ひとまず立ち寄られし三善殿のお邸にてその夜御発病、高熱にてお動きもなれず、医師がしばらくは絶対安静と申さるるまま、ただいまも三善邸にて御療養中でございまする」
聞くより広元の身の上に言いようのなき痛ましさを覚えた伊行は、その三善邸のありかを問うと、大江家にほど遠からぬ烏丸からすま通だったので、ともあれ訪れてみようと思った。
伊行は康信に一面識もなかったが、三善家の遠祖三善清行きよつらが醍醐天皇時代の式部しきぶ大輔たゆうの職にあり、政治改革上の十二条を論じた意見書を天皇に献げたという、法律と算術に通じた博学の士であったことは知っていた。その当時の宮廷貴族も後年の藤原全盛期にしだいに凋落して公卿の末流となり、後裔こうえいの康信はいま年齢下の大江広元の同僚の職にとどまるのだった。だが有名な曾祖父に匡房のある大江家も現在はあまり振るわず、その曾孫の広元が偶然にも、三善清行の後裔の康信と親しい友となっているらしいのも因縁のあることと、伊行はそうした感慨を抱いて、烏丸の奥の古色蒼然とした三善家の門をくぐった。
その邸に病臥中の広元のこの見舞客は丁重に扱われて座敷に通され、康信が応対に出て、主客ともに初対面の挨拶を交わすと、
「かねて御高名は広元殿よりうけたまわって居りました。西八条の姫への漢学の師へとお頼みを受けられたのも世尊寺殿のおはからいによると・・・」
「いや、その事がかえって広元殿に災いを及ぼしたかと・・・」
つい、不用意にもらすと、康信はすでに何もかも承知しているらしく、
「さような御配慮は御無用、広元殿には青春のよき思い出とやがてはなりましょう、そうなって早く心身共に快癒されるよう願っておりますが、まあしばらくは・・・西行法師のお訓しに従い、悩みに悩み抜かれたその果てに解脱げだつの道が見出されましょう。あの頭脳明晰の広元殿が、美女一人のためにくじけるはずもなしと信じています」
「それで安堵いたしました」
伊行はホッと救われたような感じだった。
やがて座敷に切灯台と茶菓も運ばれ、主客くつろぐと、康信は広元の今までの経過を委しく告げた。
あの日雷雨を避けた木陰の祠で、康信が祐姫の婚約をつい口にするっと、雨の中を走り出したただならぬ広元の振舞いに、初めてその切なき恋を知ったことから、西行法師との出合、姫の使いの乳母が牛車で現れたこと、そしてその帰り道にその夜の広元を大江家の孤独の書斎に帰すに忍びず、ひとまず三善邸で休息させると乳母に言って牛車からおろしてのち、熱い薬湯をすすめても咽喉を通らず咳が烈しく高熱で広元は倒れたので医師を呼ぶと、“喉痺”(扁桃腺炎)だが、“肺気”(肺炎)に及ぶと一命危うしとあって、絶対安静でようやく今日あたり危機を脱したというのだった。
伊行は広元が康信のような刎頸ふんけいの友ともいうべきを得た仕合せを喜び、その病床は妨げずに辞し去った。
2020/12/02