~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
鶴 の 庭 (三)
七条坊城の藤原信隆の邸宅は広大な庭園に囲まれている。かつての関白藤原道隆の後裔に当たるこの家は財力に恵まれていた。
当主の信隆は修理大夫以上の高い政務上の高官に望めば昇れるものを、彼は政治にたずさわるのを好まなかった。若い時から造園や建築の趣味に浸って、現在の内裏だいりの造営、修理に従事の修理職の長官を好んでその職を動こうとしない。人は変わり者と噂した。
いま四十七歳の彼は晩婚で、その子信清はまだ十三歳である。一つ下に娘の殖子がある。二人の母は信隆の北の方、大蔵卿通基みちもとむすめである。先年その北の方が二児を残して病死の後、まだ再婚せぬのは、二人の子のために継母を迎えるのを避けるためでもあるが、彼は女色にはいたって淡白で、庭の植木を愛し、数十羽も飼う丹頂の鶴を愛する生活を送っている風流人で有名だった。
だが、息子の教育には熱意を持ったのは、自分が少年の頃から学問さえ怠りがちで、ひたすら好きな趣味におぼれて、藤原道隆の直流に当たりながら、ついに廟堂びょうどうに立って政治にたずさわることも終わるを、息子に遺伝させてはならずと感じたゆえだった。
── 広元は伊行への約束通り、同伴して七条の邸を訪れて信隆に会った。
やがて雪を迎えて一家を成すからには月俸以外の収入の道をはかるためにも引き受けた広元は、初対面の信隆が鶴を好む人にふさわしく鶴のごとく痩せて気品備わり高雅な芸術家の風格があり、ひたすら立身出世を競う卑俗な官僚的気質のいやらしさがないのに頭が下がる思いだった。
「身共のようなわがまま勝手の変わり者は一代だけでたくさんだ息子にはぜひとも父を見習わせぬよう教育せねばならぬと、この父の悲願によって広元殿にお願いいたす」
と真剣に頼み込まれた。
「世俗を外に悠々と趣味に生きられる境地はみごとではございませぬか」
広元は言ったが、信隆は首を振った。
「そう言われて、ありがたいが、わがし得ざりしことを息子に望むのが人間の常を見えての、しかも幸い信清にはどうやら父とはちがう世に立つ素質があるように見受けられる。ともあれ、なにとぞお願いいたす」
の一点張りで信隆は、
「して広元殿には近く御妻帯なされるによってただいまの少納言局の月俸では生活の費用以外の書籍筆墨購入も心もとなしと言われるそうじゃが・・・」
これは紹介者の伊行がしでにその意を通じたのだった。いま面と向かって信隆に言い出されて広元は閉口した。
「広元殿、その点は御案じあるな。いかようにも奮発いたそう」
信隆は呵々大笑して、広元をくつろがせて、
「御生家を離れて新家庭を営まれるのは京のいずこかの」
親の財産をそっくり相続した信隆は同情する。
「曾祖父のゆかりある六条の地千種ちぐさ殿に残れる狭い小の地を父から贈られはいたしたものの、そこに茅屋ぼうおくを建てるにはいまだ至らず、しばらく木賊とくさのはびこるにまかせ置きます」
それは正直な打ち明け話だった。広元の今までの収入の幾分かを少しずつ老父は三男の将来のために預かっていた。それだけでは小さい居住の建築費にも足りない。康信に助力を乞えば喜んで応ずるであろうが、広元はそれを避けている。
「広元殿はいまは若き学究の人、あえて金殿玉楼に棲まれる要もなかろう。しからば御身にふさわしき瀟洒しょうしゃなる一屋を、わが息子の師のために建ててお贈りいたそう。修理大夫のこの身が図を引いて工人を指図してすみやかに建てて進ぜよう」
さりげなくあっさりと信隆が言い放つのに広元も同行した伊行も呆気にとられた。
「広元殿、それはわが子信清が学成りて官職を得るまでの数年間、御教導いただく御礼の先払いでござるよ」
声高く信隆は笑うのだった。
この闊達な正三位修理大夫の開け放たれた邸から見渡す広い庭園の樹々の下を、数十羽の鶴が美しい姿を群れなして歩むのが見える・・・。
「それでは広元殿、しかとお頼みいたす。お住居の成るまでは大江家の御書斎へ清信を通わして御教えを受けさせよう」
「いや、いや、それには及びませぬ。書庫曝書用の粗末な所に御子息の御入来ごじゅらいは恐縮、こちらより日を定めて参上いたしまする」
だが、信隆は手を振った。
「教えを乞う身でその師をわが家へ通わせては学問が身に沁まぬ。信清を通わせるが当然 ── 信隆の子と思わず、わが不肖の弟とお思いなされて鞭で打ち叩いてきびしき御教授を乞う。末は大臣おとどの栄職を帯びるに値するほど仕上げて下されよ。よいかな」
と、笑いもせずその父は言うのだった。
「それではこれで広元殿との契約ととのったとして、今日より師弟の間柄となる清信を呼ぶといたそう」
広元も伊行も信隆のきびきびとさわやかに事を運ぶ前に、みだりに言葉もはさめず、圧倒された形だった。
やがて信清がまだ元服前の少年の水干すいかん姿で現れた。うしろには翁の面のような白い顎鬚をのばした枯れ切った老人の傳役もりやくが付き従って控える。
「乳母からは五、六歳で離させました。女が甘やかしてかしずくと抜けになる。この信隆もあまりにまめやかに仕える乳母があって、わがままいっぱいに、おのれの好む事よりほかは学ばぬ男となり果てたにかんがみてのことでござる」
そして子の信清に向い、
「ここなる大江広元殿に今日より師弟の礼をとるのじゃ、この父より尊びうやもうて学問をいそそめよ」
信清少年は広元の前にうやうやしく首をさげて伏した。父に似て眉目秀でさわやかな利発な感じの子だった。
この師弟の対面が終わって、その日は広元も伊行と共に修理大夫邸を立ち出でようとすると、信隆父子が丁重に送って出て、
「広元殿はいまこそ少外記の役職ながら、やがて時来たらば必ず蛟竜こうりょうの雲雨に会して天に昇られる相を持っていられる。その際は教え児たりし清信をお引き立て下されよ」
信隆の言葉に広元はほろ苦く笑う。
平家政権のはびこる天の下では、もはやいかなる希望も持たぬ彼をさすがの信隆も洞察出来ぬのである。
「この身の未来はまことに空漠としてわかりませぬが、今わかることは御子息のために良き師となって必ず御信頼にこたえんろする志だけかと思われます」
そして一礼して、広元はその邸の門を出た。
伊行とたどる帰り道にはもう夕風が立っていた。
「今日は日頃知らぬ修理大夫の隠れた一面を見て、これはどこか傑出した非凡人と思われた。広元殿もさように思われぬか」
「俗世に超然として面を持ち、その裏にわが子に未来の大臣の夢をかける。それも一つの父の趣味でありましょうかな」
広元は微苦笑したが、数ヶ年とはいえ莫大な授業料先払いのおかげで木賊の土地に家を授ける信隆には感謝と好意を抱かねばならなかった。
ともあれ、広元の前には新しい生活が展開してゆくのだった。
2020/12/10