~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
徳 子 入 内 (六)
浄海入道清盛のむすめ徳子の入内じゅだいは、その年も押しつまった十二月十四日であった。
入内に際してその身分をいたが上に飾るために、後白河法皇の養女となる。
そのため、当日西八条の館を門出してのち法皇の御所法住寺殿ほうじゅうじでんに入られて、そこから入内の盛装に改まって勅使を迎えてのち、皇女の資格の豪華な行列に守られて貴婦人用糸毛車では最高の青糸毛の車にてとりの刻(午後六時)に宮中に向かう。その順序に従って西八条の館はうまの刻(十二時)に出られるとあって、当日は御姉妹の花山院北の方昌子も、白川殿盛子も西八条へ参り、東西の対屋の妹寛子、典子もみな揃って寝殿廻廊のきざはし近くまでお見送りに立ちならぶ。そのなかに冷泉院北の方の姿がないのは“めでたき御懐胎かいたいなれど御つわりことのはかにて悩ませらる”と報じられた。
男の兄弟は重盛、宗盛を初め一門の男系は法住寺殿から妹の入内の美々しい行列に加わって宮中まで送るので、すでに法住寺殿内に詰めているのだった。
── 同じその夜、冷泉小路の冷泉家のあるじ隆房は、細纓さいえいの冠、背に胡籙やなぐいを負うて近衛府の武官たちと今宵入内の法皇猶子ゆうしの行列を宮廷南階の前庭に迎えるために出ている。
その主が留守の邸内の、北庇きたびさしの奥深きひと間の屏風のなかの灯のかげに、このほどからつわり・・・に悩む北の方佑子が籠っていた。そこに汐戸が上がって来た。
汐戸の手には大きな折敷おしきに盛り上げたたちばなの実(蜜柑)がある。
「西八条の母君より、つわり・・・のおさまる薬代わりにとお届け下されました。徳姫御入内のおいそがしきなかを有難いことでございますの」
毎年熊野権現のある紀州から早馬で届くそれだった。
「いかがでございます。おひとつお召し上がっては、お胸がすうといたしてお心地ようなられましょう」
妊娠初期の症状には酸いものをろ、この橘の実を母の時子が届けさせたのは、今宵入内の実子徳子のその蔭に、佑子の運命もかかわりあったことへのかと思われ汐戸はいまわが手で皮をむいてすすめる橘の実の匂いにさえ胸打たれて眼がしらがうるものだった。
懐紙の上にのせたその実を一つ、北の方の前に差し出すと、それを眺めて佑子は長い睫毛を伏せたが・・・。
「汐戸、おぼえておいでか、このかぐのこのみを小二条の方へそなたが届けに行ったのを」
小二条! それは広元のいた大江邸である。
「はい、忘れはいたしませぬ、お風邪のお見舞いにあの方の御好物のこの実とおふみを持って参じました」
「汐戸ゆるして・・・言うべきことではなかったのに、これもつわり・・・の苦しみのためか、心を押さえかねて・・・」
「なんの、そのような御容赦はばされますな。お胸に積もる思いをお口にされて、少しなりともお気が晴れますなら、この汐戸の前ではなんなりと仰せられませ」
「いいえ、もう一生ふっつりとあの方のことは言いませぬ・・・」
がっくりとうなだれて肩に心の乱れるをそのままに、長い黒髪が乱れてそよぐのを見ると、汐戸はたまらない切なさだった。ああもしあの方との恋が実ってその御懐胎ならどのようにお嬉しいであろうに、いかにしても愛し得ぬ良人のたねを早くも宿される女の生理の悲しさ、それもあっての重いつわり・・・に悩まされるのかと汐戸は身も世もない辛い思いである。
── いま時刻はちょうど酉の刻の頃、法住寺殿を出る入内の行列は河原、四条、東洞院、中御門、大宮を経て上東門より宮廷に入られる、その豪華な行列を物見に七条の通りには桟敷が設けられたとさえ評判である。先駆の松明たいまつの列が銀河の地を這うような光景が汐戸の瞼に裏に想像されると、その徳姫といまわが前の冷泉家北の方の明暗二筋に分かれた女の運命を絵に描いて見せられる気がして言葉もなかった。
── 侍女がその奥廊下に現れて手をついた。
「ただいま、西八条の小檜垣と名乗られるお人が汐戸さまをたずねて見えました」
「えっ」
汐戸は驚かされたが、ともかく座を立って、そうした訪客を迎える台盤所廊の簀子すのこの縁へ急ぐと、そこにまがうかたなき小檜垣の姿があった。
「これはさて、徳姫入内の今宵になんの用にての訪れか」
「そなたへ怨みを述べに参ったのじゃ、そなたや阿紗伎の讒言ざんげんによって、姫の入内にお供して内裏の局にも入れず西八条を追われる身となったわ」
「な、なにを申さるる、途方もない邪推を」
「この乳母に代わって内裏に付いて上がるは世尊寺夫婦の娘、奈々が右京大夫とたいそうな召名めしなを名乗っての、これも阿紗伎の推薦とか」
妖しく光る細い眼を釣り上げての形相が凄まじい。
「姫御入内にて乳母めのともお役ずみなればさぞかし一生こと欠かぬお手当もありましょう。かげながら徳姫入内後のお仕合せを祈って安穏にお暮しなされよ、小桧垣どの」
「ホホ、せっかくの仰せながら、この小檜垣一生平家一門への怨恨えんこんの鬼となってのろうわ、呪おうぞ!」
そう叫ぶなり小檜垣は髪ふり乱してやがて夜の闇に蹌踉として消えゆくのみだった。
・・・あまりのことに、汐戸は肝もつぶれる思いで慄然とした・・・
2020/12/15