~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
い か ん せ ん (三)
「阿紗伎、七条修理大夫殿と典子の縁談がはたと行き悩みのこと、そなたもよう知って居るの」
「は、うけたまわって居りますゆえ、冷泉北の方にお伝えいたしましょう」
と、佑子に向きなおって、
「修理大夫さまの仰せは、『ときめく平大相国の姫を戴くなどとは思いもかけぬこと、修理大夫で一生終わるわが望みのわが身には過ぎたる重荷。もし身共再婚とあれば、地位低き公卿の家の貧しさゆえに嫁ぐ支度も調わぬあわれな姫を貰い受けて、多少は仕合せにしてやりたいがこの老人の望みでござるわ』と、せっかくの世尊寺さまの橋わたしをきっぱりと御辞退なされたとのことで、世尊寺さまもまことに粗忽そこつな縁談を口走ったと、お弱りでございます」
平家の姫君の婿君と白羽の矢を立てられた男で、辞退した者はいまだ一人もない。まさに驚かされるこの老硬骨漢に佑子はある感動を受けた。
「父君の御威勢も怖れず、さほどいさぎよき言葉を口になさるお方は、かえって典さまの婿君に望ましく思われますれど・・・」
佑子は意見を述べると、母の時子は、
「とは言え、いったん謝絶を受けたからには、こちらの面目としていかにもならぬに、そうとも知らず典子は鶴を飼うその邸の北の方になるつもりでおる。なんとしたものであろう。もし、あちらから断られたというたら・・・あのやんちゃ小姫、なんとするであろうか。それゆえこの母も誰も怖れていまだに言えず困りきって居ります。これはやはり典子のなついて慕う姉君から、ことをわけてよう言いきかしてたもらぬか」
時子はそのためにも、佑子の訪れるのを待ち受けて居たのだ。この事件は佑子の産後まもなくから起きていた問題だった。
「これはいと難儀なお役目・・・」
佑子はたゆたう。
「なにとぞお願い申し上げます」
阿紗伎は手をつく。
「頼むぞえ」
母君は言われる。
ともあれ、汐戸を連れて佑子は西の対屋へ向かう渡戸をたどる。
「修理大夫信隆さまとは、あっぱれのお方ではございませぬか」
汐戸は感服している。さっきの五十男は油断がならぬと言った一般論とはちがう人物と思うらしい。
妻戸の前に安良井が迎えに出ていた。
「典さま、また釣殿であろうか」
佑子に言われて安良井は首を振らぬばかりにして、
「いいえ、いいえ、釣のお遊びなどはもうふっつりとお忘れで、この頃は日毎に筆のお稽古、お手習いにおはげみ、七条修理大夫家に嫁いでから筝や筆跡あまりにつたくて人の笑いを招かぬようにと・・・」
「まあ、なんと」
佑子も汐戸も驚かされた。
「それに・・・輿入れの衣裳、調度の支度はまだかとお催促遊ばされます」
安良井はそれが辛くてたまらぬという、もの悲しい表情だった。
それを聞くと佑子も汐戸も言葉もない。
── 安良井の言ったように、典姫は机に向かってまことに神妙に習字の筆をとっていた。
「姉君久々にお見えになりました」
安良井の声を聞くまでもなく、近づく衣ずれのかすかかな気配で、典子は姉の訪れを知っていたのだ。
じつはさきほど、安良井が北の対屋の侍女から冷泉家北の方おん母子にてお見えになられたと報じられた時、
「姉君とその和子さまにお会いにいらせられませ」
とすすめると、典子は不機嫌になった。
「姉君には飛び立つほどお眼にかかりたいけれど、その和子は見とうない」
つまり“狆殺し”を父とする児を忌避する。
「和子さまは、母君に生き写しと、みな申して居ります」
「この典子の眼でしかと見届けねばわからぬ」
こうした、ひと悶着ひともんちゃくあったのち、いま姉をそこに迎えた典子はいきなり言い立てる。
「典子は姉上の仰せられたように、とつげ嫁げとうるそう言われぬように、鶴が庭に溢れるように飼うてある邸に輿入れします。姉君は典子の嫁ぎ先へはたびたび訪れると仰せられたゆえ、早う輿入れしたいに、まだその支度をいたすようすがないが悲しい・・・」
佑子は胸をつかれた。あまりに仇気あどけないともいじらしいとも、これでは母の時子に頼み込まれた役目は果しようがない・・・いっそのこと逆手をとった非常手段をとるよりほか、この典子への対策なしと刹那に判断した。
2020/12/19