~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
霊 鳥 (三)
主の信隆卿はまだ内匠寮たくみりょうから帰邸せぬが、佑子は嬰児えいじ隆衡たかひらを乳母の小藤に任せて置いて来たのも気がかりで、帰りを急ぐ。
その美しい客の帰りを引き止めたがる典子、そして更科まで名残を惜しむなかを、冷泉小路のわが邸に戻られた北の方が小さい若を抱き上げられてしばらく愛撫されると、母の胸に顔をよせてやすらかにいつしか寝息を立てる。その嬰児をしとねに移して枕もとを木藤に守らせ居間に入られた北の方のあとを追って、汐戸があたりを憚るように几帳を引きまわして傍近く寄り、
「お耳に入れたいことがございます」
と、何か一大事のように緊張している。
何事かと佑子は汐戸の顔を見詰める。
「今日、七条のお邸でおふたがた鶴の庭をおひろい(散策)の際に、仰せの通り更科どのと安良井とこの汐戸も打ちとけて語り合いますと、更科どのと安良井より相談がございました」
「それは何より、更科もそなたたちに心を許してのことであろう。してその事は?」
「はい、ほかならぬ修理大夫さまと北の方とのお仲についてのことでございます」
「え、では信隆卿と典さまの間、なにかおもしろからぬことでもあってか。今日の典さまの晴れやかな御機嫌からは、そうは思えぬに・・・」
「それはお仲睦まじく、北の方をわが娘のように御寵愛と更科どのは申されます」
「それなら、何も案じることはない」
「さあ、それが父君と姫のようにいつくしまれるだけで・・・女夫めおとちぎりはなさらぬと、更科どのも安良井もそれを氣づこうて・・・もし叶うことなら、これも冷泉北の方におはからいをと・・・」
佑子は言葉もなく、ほのかに頬を染めて、やがて微笑み、
「なにも気をもに事もあるまい。さすがに信隆卿は見上げたお方、典さまのあまりの仇気なさに、やがて身も心も育たれるまで優しく待たれるのであろう。そのうち必ず鶴のような美しい一夫一婦の女夫におなりよ・・・」
冷泉北の方のこの鶴の一声で、汐戸はあの更科や安良井の心配は杞憂に過ぎぬと覚った。
それから、しばらく経った日に典子が冷泉邸に姉君を訪れた。お供は安良井である。
佑子が嫁いでから妹の訪問を受けたのは初めてである。良人の隆房を嫌うゆえと知る佑子は、妹をわが邸の客に迎えるのは諦めていただけに嬉しかった。もっとも主の隆房は近衛府に出勤して留守の刻でもある。
「姉君よりおたずね下さったからには、こちらよりも伺わねば礼儀に叶わぬ、と修理大夫より申されました」
その良人の注意までもなく、典子はぜひ姉に会う機会を持ちたかったのだ。
七条北の方を迎えた汐戸はいそいそとして、もてなしの茶菓をすすめて置くと、
「おぬた方とも西の対屋の姫君のむかしに返られて睦まじゅうおものがたり遊ばしませよ」
と言うと典子は、
「そなたも、安良井と母娘睦まじく語り合うがよい」
と両人を下らせたあと、典子は姉に近く身を寄せて、
「祐さまにどうにでもお知らせしたいことがございます ── それはわが家の嫡子信清の学問の師は大江広元さまでございました。いま御妻帯にて千種殿のほとりに構えられた邸に、信清はお教えを受けに通い居りますのを、ついこのほど知りました」
勢い込んだその声をよそに、姉は美しい顔を伏せて身じろぎもせず無言である。
「修理大夫さまは広元さまをいたく御新任で、少外記しょうげきには惜しい人物とかねて思われたたところ、さいわいこのたび宮中縫殿頭ぬいどのかしらを拝命されて、やがては宮廷の高職に進まれる道が開かれるはずを、むざと御辞退にて少外記にとどまられるとは気骨が烈しいことよと申されました」
── 西八条北の方の頼みで中宮しきの時忠の計らいのその職を広元は蹴ったのであると、そこまでは姉妹は知り得ぬ。
── 佑子がしずかに顔を上げて言った。
「縫殿頭とは宮中の御服の裁縫や女官の名帳、考課をつかさどる役所 ── その長官とはいえ、それではあの方の意に添いますまい。大学寮頭とあればともかく・・・」
「そうおっしゃれば、まさしく・・・」
典子が素直にうなずいたところへ、汐戸に連れられて冷泉家の古参の侍女たちが、七条北の方より今日頂戴したお心づけのお礼言上ごんじょうに揃って現れたので、その話は打ち切りとなった。
「そのうちに祐さままた必ずいらっして」
やがて、典子は言い置いて冷泉家を去った。いつまでも居るとあのちんころしの近衛少将は帰るのを怖れたように。
そのあと佑子は居間に引き籠った。妹から聞いた広元の妻帯・・・いままで人を羨望したことのない彼女、徳子の入内も少しも羨まなかった。だが今初めて広元の妻を羨み、はてはねたまずには居られなかった。
2020/12/23