~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
小 督 出 現 (七)
おなじその夜 ──
西八条の北の対屋では時子が浮かぬ顔で阿紗伎を傍近く置いて歎かれた。
「冷泉北の方には、今日さりげなく隆房少将へのいましめの言葉を告げよと申した。佑子はまだ何も知らぬであろうが・・・あの美しい姫を見染ていて貰い受け、挙式も佑子が六波羅牡丹の宴のあとにと切に望んだのを、しゃむにその前に婚儀を急がせてわがものとしたほど執心いたしたにもかかわらず、内裏の女房小督こごう とまたもや昔の仲に戻ろうと言い寄るとは・・・男の多情は世の常ながら、平家の婿君としてちとつつしまねばならぬと思うがのう」
「まことに仰せのように・・・」
と阿紗伎も同感ながら、その時子を慰めるためにも、つい口にしたのは ──
「隆房少将のみか、平家の婿君としてはちと御遠慮が足りぬと思うお方が・・・」
「それはいずれの婿君か」
時子の問いに、阿紗伎はさすがにたゆたったが、これはいっそこの機会に申し上げるべきだと彼女は決心した。
勘解由かげゆ小路こうじの殿でございます」
「なに花山院殿かの・・・昌子が嫁いでもう年月経っての今、殿にもほかにおたわむれの女人があろうとも、これはのう、昌子もさほどうろたえまい」
当時の観念はそれが常識だった。時子も良人清盛の多情仏心めいた振舞には、たびたび試練を経ている。わが養い育てた姫六人のうち半ばの三人はみな清盛がよその女性に産ませている。
ことに名門の花山院家と縁を結ぶを清盛は望み進んで昌子を嫁がせたので、佑子の場合のように隆房少将に押し切られて、徳子入内の事情からも姫の気の進まぬを受け入れさせたのとちがう。
「はい、仰せのように、もうそうしたことは、公家の殿方にはままあるならい、家女房の一人や二人にお手がついてもそれをいちいち言い立てては笑い草ともなりましょうが、それがちと異なりまするので・・・」
「なにか。包まず申すがよい」
「おことばに従いおそれながら申し上げます。花山院家の奥に仕えますうら若き女房は上﨟格にてろう御方おんかたと呼ばれまする」
「おお、上﨟とあればさぞかし名ある公家の娘であろうの」
「はい、母はあの・・・常磐御前でございます」
常磐 ── それは平治の乱の敗将源義朝の妾と、時子が思い起すに手間取ったほど ── その敗将の遺児頼朝を伊豆に流し、その下の妾腹の児三人を連れて生母の常磐が六波羅に現れると、母子共に寛大に許して、はては常磐の許に清盛がひそかに通って常磐が妊娠したという ── 時子を傷つけた“良人の醜聞”もやがて歳月の“忘却”という鎮静剤に日頃は忘れていた。
しかも当時その事は時子を憚って周囲の口が固かった為に、弟の忠時が義兄の為にすべてを処理した後で、時子は知ったのだった。
「それでは、あの折に時忠が常磐の身二つになるを待って子は里子に出して、常磐はいずこかに嫁がせると申したが・・・」
「はい、たしかにさようお計らい下されたのでございましょう。常磐は一条大蔵卿とかの後添いにならtれたはずでございます」
「して、その前に生み落としたがわが殿との間の子は姫であったか、それがいかにして邸もあろうに、昌子の嫁ぎし花山院家の家女房に・・・」
「いかがな、なりゆきや委しくは存じませねど・・・」
阿紗伎もこの事件は、昌子に西八条から付いて花山院家の奥勤めに入ったかつての侍女の縁故から耳に入った情報だった。
北の方の昌子とは異腹の妹の当たるその人が良人の寵を受けて同じ邸にあるとは・・・律義な気性の阿紗伎には不愉快きわまりなく、また平家の御威光にかかわると腹立たしいかぎりだったので、ついその夜の機会に時子の耳に入れずには居られなかった。
「昌子は不仕合せのも先年疱瘡ほうそうかかり、ながく悩まされて、あの眉目さわやかなりし顔にむごくも痘痕を残して、その痛手の悲しさにながらく邸の奥深く引き籠るとて、この西八条にも絶えて久しく姿を見せぬが、それに加えてそのような事情があっては、なおさら心辛いであろうに・・・」
時子は外腹の娘でも、生れてまもなく引き取って育てたからには情が移っている。清盛が常磐に生ませた子は引き取る意志がなかったから大いなるちがいである。
「阿紗伎、近きうちに昌子に会うてつもる悲しみも聞いて、この母がなんなりと力にならねばなるまいの」
時子の言葉頼もしく響いて、阿紗伎を涙ぐませる。
一昨年春の光明心院供養にも花山院夫妻は疱瘡で不参だった。その病癒えても北の方昌子は引き籠っている間、母の時子はたびたび阿紗伎を見舞いにつかわして何くれと慰めていた。そこへこの情報を時子はいま初めて知らされて、棄てては置けぬ心境だった。
だが、それにしても小督の問題のあとに、またもや常磐の娘の出現、さすが気丈の時子も吐息をもらした・・・。
2020/12/30