~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
廊 の 御 方 (三)
小督もすでに内裏をさがって嵯峨のあたりの生母の許に隠れ棲む・・・。
この二人の女性が処置された蔭で、ひそかに動いた清盛の妻時子は、これでようやく安堵した。
そうした女性問題のひとまず片付いた春も暮れて、青葉濃き頃の四月二十八日の夜は、風邪が烈しく洛中を吹き渡った。いぬの刻(八時)に樋口小路あたりから出火、折からの風にあおられて扇をひろげたように火焔は東南より西北に飛ぶごとく進んだ。公卿の邸だけでも十六軒焼失、庶民の家は数知れず、煙にびせび、焔に巻かれて死ぬ者数十人、馬も牛も火の中に倒れた。
── 幸い六波羅にも西八条にも災禍は及ばず、その他の一族にも被害はなかったが、大相国清盛入道の妻として、その救恤きゅうじゅつにつとめ賑給しんごう(ほどこし)行い、食料や衣類を集めて、焼け出されてその日から困るたよりどころのない人々に与えた。そのために平家一族も救恤品を供出させられた。
「これみな平家の御功徳、八条二位殿のお手ぎわのみごとさよ」
と世はたたえた。
清盛はそれらは妻に任して、罹災した公卿に家臣を見舞いにつかわし、自分は天皇の御所に御見舞に駆けつけねばならぬ。その夜の火の手はついに皇居の正殿大極殿に及び、近くの大学寮、民部みんぶ省の官庁も一夜のうちに灰と化したのだった。
この大火が前兆のように、平家にとっていまわしい凶事がひと月後に生じたのは鹿ししたに事件である。
東山の如意にょい岳のふもと鹿ヶ谷の法勝寺執行しぎょう(寺務職)の俊寛の別荘に、後白河法皇の近臣の一群が一夜集まって、“打倒平家”の共同謀議を行ったと、その仲間の一人の裏切者が平家に媚びて西八条に密告した。翌朝清盛はその一団をさりがなく招いて、全部捕らえた。その中で主謀者は藤原成親なりちか、その妹は重盛の妻、その次女は清盛の嫡男維盛の妻、長男は平教盛のりもりの婿だった。彼らの告白から陰謀の中心に法皇がいられるのがわかった。
平家と血のつながる高倉天皇を戴いて、天皇親政を望むと見られる清盛を、法皇の院政派近臣が排除する運動は、当然ともいえるが、清盛が手を尽くしていつも歓待奉仕を怠らぬ法皇は、かく油断も隙もない政略家である。
鹿ヶ谷の会合露顕となると、法皇は清盛にさまざま弁解されるのでその場はすんだが、清盛の心中はおがやかならず大きな衝撃を受けていた。
平家と重縁を結びながら反逆をはかった成親と、その子もほかの同志もみな配流された。
こうした院政派との暗闘を、西八条の北の対屋で委しく知った時子は、もし妹の建春門院が法皇の傍に今もあれば、このような痛ましい事件は起らぬはずと、いまさらに悲しみに沈んだ。
その年の冬に時子はまたも不安な心よからぬことを聞いた。それは内裏だいりをさがったあの小督の行衛ゆくえを求めて、帝が思い悩まれるあまり、蔵人くろうど国仲に御文を託して嵯峨のあたりを探させたところ折からの名月に筝の音を頼りに馬を進めて小督の隠れ家を突きとめて、その夜たるる帝に報告、やがてひそかに小督を内裏へ連れ戻して人目につかぬ所に隠して、夜な夜なお召しになるという ── まことしややかな噂が宮廷人の間に流れているという・・・。
中宮大夫時忠が姉の許へ呼ばれた。そしてその噂の真偽を詰問されると、時忠はカラカラと笑った。
「国仲とやらは院(法皇)の蔵人、それが自己宣伝のつくり話にちがいありませぬ。いかにも『源氏物語』の桐壺帝がいまは亡き更衣こういの母のもとに靫負ゆげい命婦みょうぶを夕月夜に使いに出されてその帰りをたるるという、あの巻と同工異曲ではありませぬか」
時忠も公卿のたしなみとして歌にも古典にも多少は通じている。
「姉上、小督は嵯峨で身を清浄に暮し、つい先頃内親王を生み奉り、内親王はやがて賀茂斎院に、生母小督は出家と定められました」
斎院は未婚の皇女の神社奉仕である。
内親王・・・時子は胸撫でおろした。それにしても中宮徳子はいまだに・・・。

2021/01/02