~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
彗  星 (七)
七条邸の鶴は千羽と誇張されて人々の口に伝わったが、紙の折り鶴ならともかく、生きた鶴は年々に雛が育って数が増えて三、四十羽ともなると、餌やら飼育の世話にもなみなみいならぬ手数と人手を要した。籠に小鳥を飼うのと違って大袈裟で贅沢なものだった。それでもあるじ信隆の風雅趣味として、鶴の大群は庭の美しき点景となって栄えた。
その鶴が、この晩春の火災の夜に空に羽ばたいたが、鳥の視界は夜空に方角を失って、その多数は遭難したのか、ふたたび焼け跡にいずこからか帰ったのはきわめて少数で、それにこの秋に奇蹟のように空の彼方からその庭に舞い降りた数羽は、おそらく古巣を忘れずに帰ったのかと思われたが、もの言わぬ鶴に問いただす術もなく、ともあれ十羽に足りぬ丹頂の鶴が今はひっそりと、ありし日の有名な鶴の庭の面影をとどめている。
そして主の健康も衰えて、この秋以来とかく病床につく日が多かった。それでも中宮安産の祝いには早速にしたが、そのあとは臥床がつづき、今日は妻の典子が六波羅から帰るとまず良人の枕辺に現れた。
「いかがであった。まだ日々御産殿への伺候者で賑わうであろうの」
「はい、姉君方いずれも参られ、久しぶりで姉妹集まりました。その折、あの右京大夫も参り合うて言葉を交わしましたが、中納言内侍ないし、内裏の局にお引き籠りと申されました。日頃は風邪ひとつひかれたこともなくおすこやかなのに、ながらく宮仕えのお疲れゆえでしょうか、さっそくお見舞いのお文を差し上げましょう」
佑子に注意された通りに典子はその気になっている。
黙々と若い妻の言葉に聞き入った老いた良人の信隆は、臥床の上に起きなおって膝を正した。
「いかがなされました。医師くすしは静かにおよって(臥して)いらっしゃるのが何よりの療法と申されましたに・・・」
「いや、中納言内侍こと、わが娘殖子については、この際改まって知らせねばならぬ、しだらなく横になっては語られぬ事柄じゃ」
信隆のその態度は典子が結婚して初めて見たような、苦渋に満ちた表情だった。
これは ── わが娘殖子、の利発で美しい中納言内侍の身に何か大いなる異変が生じたと、典子はその内容がなんであるかわからぬながら、おのずと身体がこわばるのだった。
病床の次の間に控える近習の家臣は、
「しばらくさがって休息いたせ」
と言われて姿を消す。それで典子はいま良人が他聞をはばかるのを知って、いよいよ緊張させられた。
「まことに言い辛いことではあるが、殖子は帝の寵愛を蒙り懐胎の身となり引き籠る次第となった・・・」
典子はあっと仰天した。何事かあるとは思ったが、わが姉中宮の皇子誕生の直後の今、そして殖子は自分の継娘に当たるのだ。夫の信隆が言い出し難かったのも当然であり、今日会った右京大夫が中納言内侍の近況について当惑したごとくたゆたったのも思い合わされる。そして殖子の兄信清の侍従への抜擢さえも・・・。
典子も途方に暮れたが、夫の胸の内もまことに複雑な心境だと同情も催す。
わが娘が帝の寵愛を受けてみごもるとは、多くの貴族の最大の幸運のはずである。平家の清盛夫妻が中宮御懐胎以来その安産と皇子誕生を祈願し、その実現を見るとさながら虚脱したように痴呆状態だったのを、今日眼の辺りに見て帰っただけに、夫の信隆もわが娘殖子の懐胎を狂喜すべきだのに、気の毒にも平家の娘と再婚したおかげで、平家への遠慮気がねの苦境に陥っているのを妻の典子は察する。
「まことに平家と縁組せし身にとって、こなたの娘がその仕儀で、入道殿や二位殿に心苦しいが・・・禁裏に仕える女房とあれば、帝の思召しには従わねばならぬ・・・それは殖子のみではない。同じく平氏につながる宮内大輔(宮内省次官)義範よしのりむしめにて同じく内に仕える典侍少将局も寵を受けてみごもり、これはすでに実家さと方にさがらされたときいた・・・」
典子は夫のこの言葉に呆然とした。
一人ならず二人まで・・・十八歳の若き帝の寵幸を身に受けて、しかも双方ともに平家につながりがある。典子はいかにも割り切れぬ感情でがっくりとした。
その典子の耳に信隆のしわがれた声が沁み入るように聞こえる。
「まはや、病みほうけて老衰いたしたこの身には、この問題はいかに計ろうかよき思案も浮かばぬ。そちもまだあまりに若い、これは西八条の二位殿にお考えを乞うて万事お指図に従うといたしたい。そなたからその儀を願うてはくれまいか」
典子も母の時子にすがるよりほか致し方ないとうなずく。だが今日見た母の腑抜けのようすでは・・・。
「いまは中宮御産後まもなく、やがて御保養遊ばされて内裏にお帰りとあれば母君も落ち着かれましょう。それを待ってお願いいたします。御安堵なされませ」
いざとなると典子には“うす紅梅”ならぬ白梅の凛々しさがあった。
2021/01/05