~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
一 粒 の 種 (四)
── 京の都を震駭しんがいさせた平家への反逆の以仁王、頼政の謀反は、あっけないほどに潰滅したとはいえ、平家にとっての精神的な衝撃は大きなものだった。
それによって良人の清盛も、どのように心身共に消耗したかと案じる妻の時子は、
「ひとまずおさまりましたからには、あとは宗盛たちにお任せなされて、さっそく福原に赴かれ御休養遊ばしませよ」
と、すすめると、巨森は清盛は首を振った。
「もはやあの地はわが保養のためにはないぞ」
「と仰せられるのは、もはやあの荘にもお倦きになられてか」
「倦き果てたのは、ちかごろそうがましき京の都じゃ。もはやこの都に未練はない。よって福原にこそ新しき都を建設いたし人心を一新したいと決心した」
「えっ、桓武天皇の御代より栄えて四百年のこの都を棄て、あの福原に移られると仰せられますか!」
この良人に添うてこの年月、いかなる場合もこのように驚かされたことはなかった時子だった。
「清盛も一生にいちど驚天地動のこともやってのけたい。このまま京を都とすれば、あの寺々の悪僧ははびこり、それを扇動して平家への反逆の乱は絶えない。僧兵と逆徒を置いてけぼりにして、われら一族は帝、法皇、上皇を奉じてすみやかに遷都を乞うのじゃ」
時子は呆然とさせられた。先祖代々京の公家の末流ながらこの都に棲む伝統の家に生まれ育った彼女は、伊勢から起きた平氏の家系とは違うだけに、この国の中心都市がほかの地に移るばど夢にも考えられない。しかもそうした暴挙は良人によって敢行されるのである。
「皇室がお移りとあれば、朝臣たちいずれも福原に移らねばなりませぬの。姫たちの嫁ぎし近衛、花山院、冷泉、七条家もみなこの京を離れて・・・」
時子はすぐ姫姉妹の婚家を思い浮かべる。
「さよう、新都福原に移らんでううのはまず癩病かつたいの乞食だけであろうよ」
清盛は声高らかに笑った。
── 平安のいにしえ“福原の庄”(現神戸市)は生田、北野、神戸、二ツ茶屋、花熊、宇治野、今和田新田、兵庫八カ村の総称だった。当時は五、六カ村の総称は“郷”七、八カ村は“庄”と呼ばれた。
清盛若かりし日、安芸守時代にたびたび京と任地の往来に福原の庄を通った。東に武庫の連山、南は海開けて須磨浦、芦屋浦の楚馴松そなれまつに千鳥飛び交い、白帆の漁舟波間に浮かぶ風景に心ひかれ、やがてわが領の荘園に収めて、別荘に豪華な殿舎を造営“福原の荘”と名づけ、一族の頼盛も教盛も山荘を持ち、駐屯の武士団軍馬も置かれて六波羅、西八条に次ぐ一族の団地を形成した。
そこに清盛は新都を創立しようと強い決意に太い眉をあげていた。
2021/01/14