~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
還 る 都 (四)
「さりながら、保元、平治の戦いを勝ちぬかれし父君入道さまおわすからには、六波羅武士がみな腰抜けとは思われませぬ。戦いに馴れぬ若き右中将の御失策だけで、だほどに力落とし遊ばすな」
佑子は慰撫しながら、その前途に思い詰める妹の心をほかの話題に向けさせようと、
「いずれ冷泉家も福原へ引き移らねばと、その心づもりで居りましたに、にわかに旧都に複されるとあって驚きました」
「それは誰しも驚かされました。父君のせっかくの御計画も水の泡とは・・・」
「さぞかし父君も御無念と佑子も悲しまれました・・・」
「祐さま。御無念なのは父君と母君と、そして典子のみ・・・かの地に供奉ぐぶ せし公卿たちは歓呼の声をあげて喜びました。それなら何ゆえに初めから遷都に反対して父君の都うつしに堂々と異を唱えられぬか、福原に移りてより宗盛兄上ただ一人還都を説いて父君と争論されしのみ、ほかの朝臣たちはこの秋の月見の宴に父君に招かれし座にても、みな口々に『さすがに入道相国の御見識にて首都を移されしこの新都の風景絶佳の雄大さは旧都の及ぶところにあらず、おかげでわれら日々爽快に気宇おのずと壮大を覚えまする』などとお追従ついしょうを述べたてて恥もせぬ面從腹背めんじゅうふくはい! それを父君は真に受けられてあとで御無念・・・」
典子は悲憤に堪えぬ表情である。
「── 父君の御権力の前には朝臣いずれも媚びられるがならい・・・あさましけれど致し方ございませぬよ、典さま」
「されど、裕さま。その中にても摂政近衛基通公は平家の姫の寛さまの婿君、また祐さまを北の方とされる隆房中将も平家の婿君、また京に止まられてもやがて新都に移られる花山院兼雅卿も婿君、そのいずれもがほかの公卿と同じに口をつぐまれて、誰一人岳父へ親身になって還都を思い止まらせるよう誠を尽くしてお諫めせぬとは、まあなんと冷たい他人行儀のよそよそしさ・・・」
佑子は胸を刺しつらぬかれる思いだった。たしかに妹の率直に言い放つように、わが良人も帰京するやいまいましげに「いやはや、入道相国の御酔狂の都うつりと、またもや都返りでとんだめにおうたわ」と放言して憚らなかった。けれども妻の父入道相国の前では新都に満足の意を表したであろう。その妻の佑子は、いま妹に対して一言もない。ただうつむくばかりでる。
「典子は亡きわが背の君のみをめるではないけれど、あの生涯を修理大夫で終わって立身出世をあえて望まぬ反俗精神に徹したお方は、かならず父入道さまにもあやまちなきよう誠意を込めて直言なされたと思うはこの妻の身びいきゆえでございましょうか」
「いいえ、たしかにあの七条殿ならさようなされたでございましょうとも」
こうこの妹の率直な意見には頭の上がらぬ佑子である。その耳にまたも典子の哀しみこもる言葉が沁み入る。
「わが父君はお若き頃より衆にぬきんじてのあざやかな御出世にて、いつも華やかな陽の当たる位置に身を置き馴れておわせしゆえに、人に裏切られるまでは、うかとしていられる・・・」
典子の父清盛への愛情ある理解には佑子も同感だった。典子の哀切な言葉はさらに続く。
「父君はなぜいたずらに位階のみ高くて節操なき朝臣へ娘たちを嫁がせておしまいになられたのでしょう。位階低くとも富あらずとも高い学問を修められて一見識を持たるる ── たとえばあの大江広元さまのような学者をなぜ平家の婿君になさらなかったか、いまさら父君のために惜しまれてなりませぬ・・・」
── 佑子の面がさっと染まるより、むしろ蒼ざめる。
「祐さま、いまこそ申し上げます。典子はあの頃まだ幼くても、広元さまと祐さまに通い合うお心を知っていました。初めは漢文をお習いのお机の傍へ参りましたが、やがてお邪魔とさとってお傍へ行きたいのを御遠慮・・・そして美しい姉君のお心をうばう広元さまが妬ましいと思いながらも・・・おふたりの床しくもつつましい恋のやがて実るを祈りましたに、あの雪丸がさりお方に蹴殺された夜に、こは何事、祐さまが心なくも冷泉家へお輿入れと知って驚き、典子は母君の御寝所に忍び入り、祐さまを広元さまへと願いましたが、母君も御信頼の広元さまとああるに、なざかお許しなく・・・・」
いつしか佑子は妹に背を向けて打ち伏していた。長い髪がゆれて小袿の肩がおののくのは泣くまいと必死に堪えていると思える。
「その時の母君のいたし方なきお気持ちはあの福原での月の美しい夜、ひそかに安良井が母の汐戸から聞いたと今は昔の話として打ち明けられて、初めてあの時の母君のお気持ちを知りました。祐さまがあの春、西八条に御幸の帝のお眼に止りしゆえと・・・」
この時 ── 襖の外に人の気配がして、
「北の方さま、もうそろそろ西八条へお向かい遊ばさぬと日暮れの早い今日此の頃・・・」
と遠慮勝にうながす汐戸の声がした。
2021/01/18