~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
慟 哭 (四)
清盛入道相国六十四歳の生命の火が消えたのは、その閏二月四日早春の雨降る宵だった。
その前日の午前に冷泉院隆房中将が、そして花山院北の方と近衛北の方はいずれも良人と共に病床を見舞った。四日は冷泉北の方が典子を誘い合わせて牛車に同乗して西八条に入り、しばらく病床に侍して夕刻に冷泉北の方は帰られたが、典子は未亡人の気安さ、今宵は対屋に泊まると残った。子の隆清も傳役もりやくに任せておける五歳である。
泊まるつもりのおかげで典子は父の臨終を見送った。発病以来ついに言葉を失ったような父ではあったが、汗も発し、ときどきはかっと眼を大きく見開き、時には今にも騎馬で源氏追討の戦場に駆けつけようとする如く病床の褥をはねて身悶えする父だった。
だが、その父はもう永遠に指一つ動かせぬ人となって横たわる。この一代の英雄の死を悼むようにしとどに夜の雨は降りつづいていた。
嫡子宗盛は父の発病以来、出陣を止めてとどまって父の死を見守ったが、重衡は尾張に出陣、維盛もまだ帰洛せぬ。六波羅の武士たちもおもだった将はいずれも各地に源氏と戦って転々としていた。
湯殿守の美濃六は入道病中も日々、蒸風呂上がり湯の大釜に湯鳴りをさせて、いつかは召される日を祈った甲斐もなく、その夜半彼は泣きつつ、清盛のこの世で最後の沐浴もくよく湯灌浴ゆかんの役をつとめた。
装束筒奉仕から湯殿の役、いつも清盛の肌に接して仕えた彼は、その亡骸を浄める役まで一貫した。
「ああ、お肩が石のように凝っていられる。さぞお苦しかったであろう」
美濃六は泣きむせぶ声をあげた。
檜の香を放つ大きな柩は西八条作事係(大工)が白衣に折烏帽子の姿で造り上げた。それに納まる清盛は生前はで好きで豪華を好み、出家入道後も時折身に付けたの法衣にきらびやかな錦の袈裟をまとい、宋船のもたらした黄の瑪瑙めのうをつづった大粒の数珠を合掌の手にかけられた。柩の隅々には伽羅きゃらの香木が白絹に包まれて惜しみなく詰め込まれた。
柩を安置する祭壇が正殿広間に儲けられる頃、夜は明け、雨は止んで、陽がさして来た。
ようやくその頃、西八条からの使者が馬を飛ばして平家血縁の一族にこの悲報をもたらした。
「夜半、門を叩いて驚かして雨の中を馳せつけさせたとて、入道さまはおよろこびのはずはなかろうぞ」
いま良人と永別したばかりの時子は、そうした場合も毅然として彼女らしい思慮を保っていた。
やがて ── 六波羅の一族、姫たちの婚家の夫妻たちの車馬がひしめめくように西八条の門に流れ込むと、知らせを受けぬ朝臣、公家の間にも“昨夜入道相国薨逝こうせいと伝聞”と噂がひろまった。
四人の姫姉妹は典子を除く以外は、柩の中の父に最後の対面をした。誰も彼も駆けつける一族のために、柩の蓋は覆われずに置かれた。花山院家や冷泉院家、七条家典子の子たちもやがて傳役や乳母に連れられて祖父との永いいとまをさせられた。
その夜のうちに洛東の火葬場、愛宕おたぎの念仏寺で火葬のため、夜伽(通夜)も早目に切り上げられて、柩の蓋が覆われ宗盛兄弟や家臣たちの手で釘を打とうとした刹那、
「しばらく、しばらく、いましばらくお待ちなされて下されませ」
とあわただしく声をかけたのは、西八条の宰領役の難波弥五左衛門だった。清盛夫妻の新婚の家庭に仕えて幾春秋、いまは老いたが“平家の生き字引き”と言われるほど、こと平家の家庭の事情については知らぬ事のない老家臣の庶務主任だった。
その人の慌てて止めるので、蓋はまだとざされずに待った。
ほどなく、弥五左老が二人の女人を祭壇に導いて現れた。
その二人の女性は、一人はまだうら若く美貌の初々しい処女と見える。もう一人は三つ四つ年上らしく、これも美しいがややさびしい影がある。
この若い女性がつつましく焼香をするのを待って、弥五左老が祭壇の脇の白木八足机にいましがたおろされて蓋に釘打つばかりの柩の前に連れて行き、合掌して蓋をずらすと、祭壇のまぶしいほどの灯明台の灯の下に入道相国のありし日の面影がまだ生けるが如く浮かび出る。と・・・二人の女性は柩に取りすがり、よよと泣き伏した。
その光景を一座の人々は息詰まる思いで眺めた。ことに近衛、冷泉北の方や典子はその女性がまだ見たことのない人だけに驚かされた。
弥五左老は、はらはらしてその二人を柩から引き離すようにして廻廊へと連れ出すと、やがて柩の蓋に釘打つ音がした。
2021/01/20