~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
幻 妖 (四)
今朝福原へ運ばれる入道さま御遺骨のお供には西八条の家臣たちが多勢付き従った。その夜は館には二位さまを初め阿紗伎、侍女たち針女しんみょう水仕女みずしめの女人勢が多く、男は弥五左老と門の衛士と中門廊の宿直とのいの侍もいつもと違って二、三人に過ぎない。それに台盤所の炊事料理人も雑色たちもみな下屋に帰って連日の取り込みの疲れをいやしている。まことに日頃と違ってこの夜はしいんとした人気のない西八条だった。
それだけに責任を感じて、館の敷地内のわが家に帰らず宿直をしたが弥五左は眠れなかった。
彼とて老人、入道さまの発病以来身も心もくたくたではあるが、眼が冴えて眠れぬ。
その時 ── しんとした広い館の裏門近くからときならぬ多勢の人声が高くざわめいて聞こえた。
なんの騒ぎかと弥五左は起きると身支度をして、脂燭しそくを手に裏門のあたりへ出た。脂燭とは座敷や庭の見廻りの用に使う細長い松明で、松の枝を細く割って端を炭火で焦し油を浸み込ませて、手に持つところは厚い紙で巻く。
弥五左がその灯を手にして裏門のほとりに行くと、がやがやと人声の立つのは雑色たちの雑舎の中だった。そのなかに雑色や牛飼まで集まって酒盛りをして声高でさんざめいている。
「こら、そちたちはなんと心得ている。入道さまの喪中につつしむべきものを・・・」
あまり日頃は怒り声を出さぬ彼も険しい眼をして叱りつけた。
「まことにどうも・・・このような不始末をいたして、なんとも」
雑舎の板敷の上に額をすりつけてあやまるのは台盤所に古くから仕えて弥五左も顔見知りの老いた炊事夫だった。
弥五左はこの雑色や下僕たちの前に粗末な酒器や古びた折敷おしきに盛ってある料理が昨夜の夜伽に出たものの残肴であるのを見ると、それが老炊事夫の善意で雑色たちにも振舞われたと知る。
「そちたちも日夜よう働いた。今夜初めてくつろいで骨休めもよかろうが、あまり高い声で騒がましく振舞うなよ。洛中の口さがない奴たちは西八条のこの夜に入道相国に怨みを持つ亡者が現れて心地よげに歌うて躍ったなどと噂いたすかも知れぬぞ」
「えっ、そんなことを言う奴は生かしておいていいものか!」
雑色二、三人は血相変えて肩をいからして土間に飛び降りた。
「この洛中の賑わいもみな平家の御威光によるとの御恩も忘れて!」
酔った足許のあぶない者たちがみな立ち上がる。
「よい、よい、そちたちの慰労のための酒盛りをさまたがはせぬが、喪中の館じゃ、ほどよくいたせよ」
弥五左は苦笑して立ち去ると館裏手の台盤所の脇の中渡廊わたりろうへ上がろうと歩く途中でれちがった女がいた。脂燭の明りでちらと見たその女の髪はなかば白くそそけ、夜風に吹かれてその髪の毛の先が頬にまつわるしわばんだ顔の眼の険しさに弥五左は幽鬼のような印象を受けてぎょっとしたが、女は脂燭の光をさっと避けると、もう夜の闇に消えた。月も星もない明日は雨かと思われる夜空の下の束の間の妖しい幻のような老女だった。
彼はその女の行く手を見定めようと追ったが広い裏門の空地のどこかに去ったのか、見当たらなかった。水仕の女、洗濯婦など弥五左が顔も覚えぬ雑役の老女たちが館の裏には数多く棲んでいるので、もしやその一人かと思ったが ── その顔の目鼻に何か記憶に残るものを覚えた。
彼は脂燭の灯を持ったついでに、二位さまおやすみの北の対へ渡って、そのあたりの見まわりをして引き返そうとすると、彼の足音を聞いてか、
「弥五左どのか」
と阿紗伎が呼びかけて廻廊に現れた。
「おう、まだやすまれぬか」
「二位さまのお寝間のごようすを見て、これからお次の間でやすみまする。弥五左どのも夜更けまでお見廻りの御苦労おかけいたしますの」
「いや、今宵は侍衆の詰めぬ館とて気になるゆえ、見廻り仕る・・・さきほど雑舎のやからの酒盛りの騒ぎをいましめての帰るさに裏の空地の闇でちらと見た老女がどうも何か見覚えがあると思うたら ── どうもあの小檜垣らしい・・・年齢としもとっていかにも落魄の姿に見えたが ──」
「えっ、あの小檜垣!」
阿紗伎は身ぶるいをした。徳姫入内と同時にお召し払いになったあの悪知恵に災された乳母の名を久しぶりで耳にして、うす気味悪い限りだった。
「入道さまの弔問に来たにしては、裏門のあたりをうろうろせずに顔を出せばよいに、すぐ小檜垣と気付けば声をかけたが、その時は気付かずにのう、それとも人違いかな」
弥五左もその点ははっきり断定は出来なかった。
2021/01/22