~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
女 院 号 (四)
入道相国の世を去ったこの年は、平家にとって大いなる凶年であったが、またこの国土も“大飢饉”という凶年となった。源平のあちこちでの合戦が繰り返される最中に全国的に五穀ことごとく実らぬとあっては源平双方とも兵糧が欠乏してついに戦局は膠着状態となって動けぬ。
人を殺し合う戦いが、しばらくでも休止されるのは幸いであったが、戦死者に代って、庶民の餓死者が数知れず生じた。
朝廷でもその災禍を追い払うために年号を改めねばと、その七月十四日に今まで五年続いた“治承”を改元“養和元年”となった。
改元後の冬に安徳帝の母后徳子に“建礼門院”の女院号が贈られた。
これは天皇の生母への尊号であり、その待遇は上皇に準ずる。宮城の門の名にちなむので門院という。
「建礼門院・・・なにかおさびしいお名に思える。祖母君の仕えられし美福門院、叔母君に建春門院の文字は陽性で華やぐのに・・・」
姉君の栄誉ある女院号に、こうした感想を抱いたのは姉妹の末妹典子であった。
姉妹の母時子の実家の、祖父平時信の妻は当時の近衛天皇の御母美福門院の女房であった。母時子の妹滋子はかつての高倉帝の御母建春門院。この幸多かりし二女性の門院号に比べて、今わが姉に授けられしそれは何か蕭条とした感触を覚えたからである。
けれども、それはわが胸に納めて身近の安良井にも仲睦まじき冷泉北の方にも告げなかった。
この建礼門院の名こそ千年ののちまでも、ありし世の悲劇の女主人公として語り伝えられるとまでは、そのとき妹の典子もさすがに予想出来るはずはなかった。
この帝の母の悲しき運命を伝える女院号は源平の興亡のまださだかならざりし養和元年十一月二十五日に授けられた。その日は雨、と当時の右大臣藤原兼実の日記にしるしてある。
2021/01/23