~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
白 鳥 の 歌 (八)
その夜は下弦の月も細ったほの暗い空の下の雪見御所の見晴しの廻廊の間で、入道相国に供養の管弦講かんげんこうが行われた。一門いずれも管弦に長じた公達きんだち育ち、笛を忠度ただのり通盛みちもり鉦鼓しょうこは時忠、太鼓は宗盛、しょう清経きよつね、筝は大納言佐局、琵琶は経正つねまさ等々、鎧を脱ぎ烏帽子に錦の直衣姿で優雅、繊細な平家美意識を身につけた美男美女系の一族の妙なる調べは、まさしく美しき瀕死の白鳥の群れの哀しき歌とも響き渡る・・・。
その管弦の合奏終わると庭の篝火も消えがてになり、にわかに庭の草むらからの虫の音が聞こえた・・・その時、忠度はすっくと立って、いつものお得意の朗詠に朗々と美声をあげた。
前途ぜんどほど遠し 思ひを雁山のゆふべの雲にす
後会期はるかなり えい鴻臚かうろの暁の涙にうるほ
彼は都落ちの途中で歌道の師藤原俊成卿の五条京極の邸の門を叩いて、自分の今までの作歌百余首をまとめた巻物を渡し、勅撰歌集のことあらば、この中の一首でも撰に入らば世に思い残すことなしと告げて馬に鞭打っていっさんに淀の河原に走ったのだった。
“後会期遥かなり”の再唱に建礼門院も時子も涙された。管弦のつどい果て、夜の臥床ふしどに入る時子が阿紗伎に問う。
「淀の河原より見え隠れにわれらの眼をはばかるように身をひそめて一行に加わる美しくうら若い上﨟は居らるるが、あれは誰であろうか」
その美女が廻廊の片隅で乳母らしい老女を伴って管弦を聞く姿を時子は見ていたのだった。
「あのお方は越前三位さんみさまと契られた小宰相のつぼねでございます」
越前三位とは教盛の嫡子通盛である。北の方は宗盛の姫でわずか十二歳である。あまりの幼妻に通盛はもう少し成人した恋人を持ったのが禁中一の美女小宰相だった。
「越前三位をここまで慕うて来られるはしおらしけれど、これから先はどのような修羅を見るかも知れぬに・・・」
時子は暗然とした。
その翌朝、入道遺愛の山荘も一族の別荘すべても敵に利用を許さぬために火を放って、その炎を眺めつつ、平家の一門と兵馬は兵庫の港から清盛が太宰大弐だざいのだいに(大宰府長官)以来の縁故ある大宰府に船出した。」
2021/01/30