~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
さ ら ば 、 ふ る さ と (三)
康信と広元の出発の日が数日のびたのは、すでに源義仲軍が勢多に近づいたからであった。その当時の東海道は後年の江戸幕府の定めた東海道とはちがって大津へ出て 不破関 ふわのせき から東海へ出るか、伊勢に入って鈴鹿を越えるかいずれにしても勢多の橋を通る。そのあたりに源氏の義仲が ひしめ めけば京からは平氏軍が突然戦場の修羅を展開するかも知れぬ不安があった。
ところが、その 最中 さなか 平家一族は安徳帝を奉じて一門の武士団と都を去った。
その日の京の洛中は六波羅、西八条の燃ゆる火焔を眺めに人出が賑わった。西京がさびれてから荒れ果てて盗賊の巣となったという羅生門の楼上に人々は登って、その壮大な平家一門の館のほろびる火の手を見物したという。その洛中の情勢を視察に康信は出かけた。彼の烏丸の邸にはすでに広元とその妻子も同居している。
康信は京の巷に出たが、広元は邸内の庭に出て黙然と空を仰いで立った。
西八条が燃える!
若き日にその館の美しき姫の師として通うたあの豪華な建物が、いま地上から形を失って灰となる。それはわが青春の恋のかたみが火にほろび去るのだ。
西八条のあたりの空を覆う火の気を帯びた黒煙は空高く舞いなびくと巨大な黒き竜の天に昇るかと見ゆる。広元は魂の抜けたようにじっとその空の彼方を見詰めて身じろぎもせずに立ちつくす、その耳もとに、
「広元殿」
と彼を現実に呼ぶ戻す声をかけたのは、いましがた帰った康信だった。それに振り返る広元のわれに返った顔には 含羞 がんしゅう の色が浮かんだ。何を思うて空を仰いでいたかと、わが心中をこの友に推察されたと恥じる・・・。
「法皇はみごとに平家の裏をかかれて今暁延暦寺に御幸なされた、よって勢多の義仲軍は進んで坂本に向かうという。木曾の 冠者 かんじゃ (義仲)法皇に平家追討の宣旨を乞うつもりであろうか」
康信は洛中で聞き出した情報を告げる。坂本とは比叡山の東麓の地名。法皇御幸の延暦寺は比叡山にある。
「康信殿、ともあれ平家西国に去れば東海道にて源平ほこは交えぬ。明日の暁にはわれら鎌倉に参向いたそう」
「よう申された。今まで京を出にづるのとかくたゆたわれた貴君、ようやく腰を上げられて祝着至極しゅうちゃくしごく
康信は喜んで畏友肩を叩き、ふと戯れて口をすべらした。
「もう京には未練はないはず、貴君の思いで深い西八条も煙となったわ」
「なにをおろかな・・・」
広元は耳にも止めず庭を立ち去って家のうちに入った。妻にも明日の出立しゅったつを告げねばならぬ。
── その宵、康信、広元の妻子と弟康清は集まってささやかな送別の夕餉ゆうげを囲んだ。康清は先年妻を難産で胎内の子と共に失ってから妻帯を怖れての鰥夫やもめだった。それに兄の密使としての鎌倉との往復でいつなんどき平家の探索の網に押さえられるかも知れぬ身には独り者の身軽さを望んだ。彼はおのれの生活を犠牲にしてひたすら兄康信のために献身の月日だった。明日いよいよ兄たちが鎌倉に向かうことによって、今までの使者の役は終わる。
「康清、そなたの多年の功によってこの兄も広元殿と新しき生涯への門出となった。いずれはそなたに酬いるであろう」
兄はしみじみと言うと、
「兄上たち多年の望み叶いて明日の御出立を見るによって、もうわが労は酬いられて居ります。御出立後はしかと両家族をお預かりして守護いたすゆえ御案じなく」
この律義な誠実な弟の双眼は濡れていた。八重と雪とが一つの包みを広元に差し出した。
「鎌倉へめでたき旅立ちのお祝いでございます」
包みの中は両女の心づくしの新しい直垂ひたたれだった。鎌倉武士の風俗は直衣より鎧下着にもなる直垂地と、康清から教えられてそれに従ったのだった。
「かたじけないが、鎌倉殿は見参の者の着衣で人の品定めはなされまい」
広元は苦笑したが、祐姫見立ての豪華な直衣は十年の歳月にむなしく虫喰いとなった。そして今妻と盟友の妻女協力の贈物の直垂を、頼朝との晴れの対面に着るのが自分の運命と知らされた。広元は妻と八重女の心づくしを素直に受けた。次に康清が差し出したのは、彼が丹念に描いた京から鎌倉までの道程地図であった。
「京から勢多橋、明日の泊りは大岳おおたけ、翌朝鈴鹿山を経て泊りは関屋・・・雨の日は無理はなさらぬこと、まず十四日は費やすと・・・康清は旅馴れて十日でも辿れますが、兄上がたは東海下りはながい初旅、あせらずにお身体も馬もいたわって辿らるれば、やがて大磯の浦から相模川を渡って片瀬川、そして越越、稲村ヶ崎、江ノ島の浮かぶ由比ヶ浜に出ます。むかしは草深い漁村もいまは源氏のお膝元と賑わい、若宮八幡宮も鎮座、大倉郷には御館おんやかた(頼朝邸)と侍所とまわりは御家人ごけにんの屋敷が立ち並んで居ります」
そこに無事着くまでの旅の心得など康清は知る限りを兄と広元に授ける ── やがて鎌倉幕府成立後は通行保証の“過書”(関所手形)が出され、宿泊の施設も出来たが、この康信たちの旅立つ時点では宿泊などは不便で仮屋という板小屋掛があったぐらいで、荘園を広く持つ貴族の旅なら荘司(管理者)たちに命じて便宜を計らせるが、この両人の旅中はまず不自由を覚悟せねばならなかった。夜は更けた。明朝は早い出発、みな臥床についたが、旅立つ人も残る人もひとしく眠れぬひと夜だった。
翌朝はまだ仄暗いとらの刻(午前四時)、狩衣の旅装で馬上の人となる。馬の飼葉かいばや世話の馬丁も兼ねる若い下僕が荷を負うて付く、そのなかには主たちの下着や着更えに雨具。今日の屯食とんじき(弁当)と旅中用のほしいの袋は馬の鞍に結ぶ。下僕が松明ちまつを持つほどまだ暗い門のほとりだった・見送る二人の妻の眼に夜目のも光る雫が浮かぶ。
「ではよき便りを待てよ」
と馬上からの声。しんかんとした烏丸の屋敷町にひびく馬の蹄の音がやがて遠のく。
康信の馬が進む方向が少し違うので広元は首をかしげて問う。
「いずこへ寄らるる?」
「広元殿に京の名残を惜しませたいと存ずる」
信康の声には熱い情がこもったいた。広元は友の馬が進むので致し方なく従うと、いつしか冷泉万里小路の一劃を占める冷泉隆房邸の周囲の道を馬は行く。広元が今まで避けて通った哀しい邸のほとりである。めぐらす土塀のなかに茂る樹木が朝風に黒髪のようにそよぐ。
「広元殿、これからの道はわれらの新生涯に通じる道よの!」
康信の声と共に広元は馬に一鞭当てて走らせた ── 過去を振り棄て、生れて育ったふるさとも棄て、ひたすら未来にわが命を賭ける男の蹄の音は暁闇の中に悲壮にひびく・・・。
2021/01/31