~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
平 家 の 消 息 (四)
その日、一月中旬はまだ日短でその刻はすでにあたりは雀色すずめいろである。ことにそのあたりは椎の大木がずらりと並んで生い茂っているので、さらに木の下蔭の昼も仄暗い。いま安良井が鍵をおろしに板戸に近づくと、「母者ははじゃびと」と低く声を殺して呼ぶ声がした。安良井はその声に全身を打たれて足がくすんだ。自分を“母”と男の声で呼ぶ者は小六郎よりほかない。その息子は陛下一門に従って福原から西海に船出したはずである。さてはわが息子を案じる母の迷いの空耳かと思う。その眼の前に椎の大木の蔭から現れた怪しい人影が夕闇の中に浮いた。身には農夫やきこりの雨具であり防寒用でもある茅の葉を編んだ蓑に身を包み頭にかぶったわら編みの三角型の藁頭巾ずきんに頭のなかばを隠した姿であるが、安良井の眼はあざむけぬ。それはまさしくわが息子、平家の武将教盛に仕える侍の美濃小六郎だった。
「こ、これはまたどうしてそなたが此処に?」
動転する母の声を抑えて、あたりを見まわし声をひそめた小六郎は言う。
「二位さま(時子)は京に残されし姫たちのお身の上をいたく御案じ、そのごようすを伺いがてら平家軍その後のようすを伝えよとの御用を小六郎がお引き受けし、ひそかにこの邸の夕闇に紛れて潜入、先刻より椎の木蔭に隠れ忍びし甲斐あって、早くも母者びとに会えたのは天祐神助!」
「姫がた御入輿先はいずれも源平の戦にかかわりなき堂上公卿、お身の上にいまさらなんのお変わりあろうか。それよりも都を落ちられてからの平家御一門のなりゆきいかがと、それのみは各北の方もわれらも心にかかってならぬわいのう」
声をしのばせる母の安良井に、
「それをお伝えせいでなんとしよう。その後京において木曾殿が政治にくちばしを入れてすわり込み、やがて鎌倉より軍勢上って、同じ源氏同士が争う間に、平家は備前、播磨を奪回いたし、ついに福原に戻って一谷いちのたに陣地を築き、生田森いくたのもりを大手の城戸きどに、西は塩屋、背には天嶮の鵯越ひいよどりごえ の要害とあって、ここに平家は鎌倉軍を迎え討ってのち京の都にめでたく凱旋いたす日も遠からじ、このよき知らせにと蓑と藁頭巾に身を変えて忍び入りました」
「おお、嬉しや、また福原に平家の赤旗かかげて六波羅のつわものたちが、やれうれした、それで帝も建礼門院も、二位さまもおつつがのうてか」
この瞬間安良井にはおまこの邸七条殿の新帝も国母殖子のことも忘れて平家のなつかしい女人の面影のみ浮かぶ。
「幸いどなたもお健やかにて都落ち以来の苦労に堪えられて京に帰らるる日を待たるるのみよ」
「それでこそ安堵、やれ嬉しや!」
安良井はうれし涙に暮れる。
「さらば母じゃびと、ここで捕らえられては一大事、一刻も早う福原に立ち戻らねば」
小六郎は動くと蓑のがさがさと音を立てるにもあたりを憚って切戸の外にくぐり出ようとする。
「これ、そなたの女房菊女はしかとこの母がこの邸に預かっている。邸内に人眼がなくば会わせてやりたいがのう」
「それは危ない望み、早くここを立ち退かねばならぬ。じゃが、みごもる身を福原よりこの邸に届けられて、もう児は生れましたか・・・」
「おお、馴れぬ旅がさわったか、こちらへ着くと間ものう流産したあわれさ、なれどいまはこの邸の針女しんみょうになってみごとな針仕事で重宝がられて居りますぞ」
みなまで聞かず、小六郎は切戸の外の闇の道へ。
「達者で暮らせと菊に伝えて下され」
と、声を残して消え去った。
2021/02/01