~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
京 と 鎌 倉 (四)
広元は講義に、康信は秘書役として頼朝居館に日々通勤する生活が、旅の疲労快復の後に開始された。
御所と呼ばれるこの源氏の頭領の屋敷も、京洛の六波羅、西八条の豪華な建物に比べれば、まったく驚くべき素朴質実な建物だった。四つの門はいずれも板屋根の上に土を盛った門で、周囲のかこいは板を連ねただけの板塀であり、館の多くの家臣たち中門脇の廊下に起き臥しし、下僕たちは厩舎の床に馬と同居の生活だった。けれどもその広い居館と附属の侍所には新興政権の意気さかんに、天を突き上げる如き雰囲気がみなぎり溢れて居て、広元も康信も眼のさめるように緊張させられた。この両人はまもなく頼朝の妻政子にも対面した。
政子は良人が要望して招き寄せた新しい家臣の二人と初の対面後の所感を良人に洩らした。
「康信どのはおん乳母めのとの甥御にて、かねて伊豆以来から文通を怠らざりし人として初めて会うとも思えぬ親しさを覚え、その温和にて誠こもれる人柄になるほどと思われましたが、御同道の広元殿は学問の家大江家の御子息とて智能衆にぬきんずるのは当然ながら、眼光鋭く冷徹の御気性は空おそろしき心地さえいたしました。うかとこのお人を敵にまわせば百万の兵力より怖ろしい智力の主ではございませぬかの」
政子のこれは印象だった。彼女が伊豆で許されぬ恋仲で生れた大姫の次に、この鎌倉で待望の長男頼家の母となって貫禄の付いた夫人となっていた。
まもなく翌寿永三年春を迎えると一谷での捕虜平重衡が鎌倉に送られて来た。政子はこの平家の公達育ちの悲運の将に同情して、
「いずれはかつての奈良の寺院焼打ちの復習に奈良の僧徒が引き渡しを強要いたすからには、必ず御生命は危ういと思われまする。せめてこの鎌倉にて叶う限りの接待をいたしましょう」
と良人に説いて捕らわれの敵将として拘禁中の彼に酒肴を贈らせ、侍女の美しい千手せんじゅを慰問にはべらせて滞在中の身辺の世話をさせた。
その同じ頃、この率直にして思いやり深い夫人に痛恨の打撃を頼朝は不覚にも与えた。栗津ヶ原で同じ源氏軍に追われて戦没した木曾義仲が、その以前頼朝の信任を得るために嫡子義高を人質として送り届けて預けた。頼朝夫妻の長女大姫とこの義高少年は同じ館で兄妹のように睦まじく、大姫は兄のように義高を慕って幼馴染の初恋に似た感情を持った。母の政子は良人の従弟義仲を同族で討ち合う不幸で亡ぼした罪の償いのためにも、その遺子義高は保護して、将来は大姫の婿にもと考える。
だが頼朝の思考はその反対だった。わが身をうかと平家が殺さずに伊豆に流したおかげで、平家は今危うし! されば怜悧な義高をそのままにすれば、やがて長じて父を討った非情の頼朝に怨みを晴らさんと立ち上がるは必定と見た。それゆえ家臣にひそかに殺害を命じたが、館の侍女が義高お憐れんで逃亡させたのを、頼朝は追跡させて二日後に入間河原で捕らえて誅した。
これを知った大姫の悲歎はひとかたならず飲食も捕らぬため母の政子の痛恨もことのほかで頼朝の非情の行為を責め立てたため、頼朝は義高少年の加害者の郎党を斬って強妻への申し訳にしたが、
「御所の命に従いそ郎党を今更斬ったとて義高殿が生き返られはいたしませぬ。さても無益の殺生をなさることかな」
と歎かれて、さすがの頼朝もこうじ果てた。
── こうした出来事が頼朝の家庭に生じていたのを広元は耳にせぬではなかったが、彼はまだそうした頼朝の身辺に立ち入る身分でもなく、ただひたすら彼への講義を励んだが・・・じつは頼朝、政子の性格、志向を洞察する貴重な期間でもあった。その彼がやがて頼朝の幕下の臣安芸介あきのすけ広元として公式の場に初めて現れたのは、清盛の異母弟池殿(頼盛)が恩人として鎌倉に迎えられた手厚く歓待され、いったん平家一族として剥奪された階位も復されて、しばらく滞在後の帰洛前夜の送別宴の時であった。頼朝から餞別の砂金一袋を渡す役を広元が勤めると、頼盛は恐縮して押し戴き、
「聞くところによれば安芸介広元殿は儒家大江匤房卿の曾孫に当たられるそうな。かかる名門出身の貴君を側近に置かるる鎌倉殿の御鑑識の高さよ」
と、頼朝への追従ついしょうを恥もせず言い立てるのに広元は胸が悪くなった。一門の都落ちから引き返して、いまわが身の安全と身分の保証を得たこの卑怯者にくらべて、一谷で戦死、首を獄門にかけられた平家武将たちのいかにいさぎよきかを思い知らされた広元はきわめて冷ややかに応じた。
「平家一門の中でただお一人、御果報めでたきことに存じまする」
と、彼の前をしりぞいた。
2021/02/06