~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
渦 紋 (三)
── その日から三ヶ月後に尊成たかひら親王の即位式が神器不在のまま挙行された。昨年の践祚せんその儀式が神器不在のままだったので即位の大典には是非とも神器を備えたしと、朝廷の面目上の法皇の希望に添うために花山院、冷泉の両卿義妹典子を説いて平時子の母性愛に重衡の命乞いをうったえて目的を果そうとしたが、見事に失敗してこのたびも神器不在となった。それは平家が昨年七月の都落ちから一年後であり、一谷敗戦から半年を経ていた。
その間に平家軍は屋島を本拠として陣容調ととのい付近の西国をなびかせて追討の源範頼のりよりの率いる軍勢を六度も敗退させて意気大いに振い、ようやく一谷敗戦の痛手から回復し、京都にはまたもや“平氏再起侮りがたし”と風評がひろまった。
義経は一谷以来京に止まって都の守備に当たり法皇の御親任並ならず左衛門尉を拝命した。これは鎌倉の頼朝を激怒させた。部下の任官はすべて頼朝の奏請によるという定めを弟たりとも無視したのは許し難かった。そのため屋島の平家軍追討には義経は外されていた。
美濃小六郎は平家の都落ち以来、帝と建礼門院、二位局時子の親衛隊の青年武士に任じられていた。入道大相国の殉死者美濃六平太と汐戸の孫、そして安良井の一人息子の彼を時子が身辺の守護に置くのも、彼の祖父母や母への心づくしからだった。ことに小六郎は平家の末娘典子の乳兄妹に当たる。
屋島の平家軍は遠征の源氏軍を敗退させてはいたが、けっして油断はしなかった。いつかは一谷の常勝者義経が現れるに備えて帝の行宮所あんぐうしょも海岸の港近き所に設けて、いざという時いつでも乗船出来るように海上にあまたの兵船と御座船が用意してあった。
小六郎はその行宮所にに仕える。ここしばらく源氏軍の襲来も絶えて屋島の平家の陣容は閑日月であった。小六郎は長閑のどかに大きな二個の大瓢箪ひょうたんみがいて居た。それは彼がかつて福原の宿衛武士の頃に棲居の小庭の瓢箪棚でもっとも大きく成熟した二個の果肉をくり抜いて丹精したもので中のくびれには妻の菊女が朱の紐を結び付けて肩につるるせるようにしたのを彼は飾っていたが、先年の平家の都落ちで山荘を焼き払い海上を大宰府に辿る時から、その二つの大瓢箪に山清水を満たして御座船に乗り込んだ。
船内には常に飲用水の用意が必要だった。海水は飲用にならぬから。御座船にも大樽に飲用水は満たしてあったが。小六郎持参の大瓢箪の山清水の帝と門院の御用に献上すると、樽の水よりさわやかと賞美されたので、屋島へ来てからも渓谷のいわ清水を探していつにわかに御座船となっても困らぬように小六郎は毎朝新鮮な石清水を汲み替えに谷間に降りて行く。
その屋島で元歴二年(1189)を平家の軍営は迎えた。その二月、頼朝はいつまでも屋島攻撃が成功せぬので義経を出陣させるより仕方なくなり、ついに京都の彼に出陣の命を与えた。義経は勇躍して軍を進め二月十六日に摂津の渡辺津(現大阪市内)から深夜に暴風雨の海へ五艘の船を乗り出させ十八日に阿波の桂浦(現・徳島市内)に上陸し屋島迄の山路を昼夜騎馬を急がせ十九日の辰の刻(午前八時)に平氏陣地と行宮所の背後に忽然と現れた。これも一谷と同じに義経得意の奇襲作戦だった。
屋島でも平氏軍は敵は必ず正面の海上から敵前上陸を行うと予想して海上からの攻撃に備えて居ただけに、無防備の背後の陸地からの敵に慌てふためいて海上に逃れるよりせん術のなかった。
まず帝と門院、時子たち女人を守護して親衛隊は真っ先に御座船に乗り込んだ。そのなかに美濃小六郎の姿がなかったのは、彼はその朝も谷間に石清水を瓢箪に汲み替えに出ていたからだった。一つにおよそ一升も入る大きなひさごとて汲み入れるにもひまどり、ようやく行宮あんぐう近くに戻ると、そのあたりの平氏軍営はがら空きとなり、海には沖目がけて兵船がこぎ出され、大きな御座船はその中央に囲まれて波を切っている。小六郎は仰天して渚に走り寄って、そこに残されて波に浮く一艘の小舟に飛び込むと必死と漕いだ。船団のどん尻の兵船が定員過剰で船脚遅れたのに追いついたが、もう満員以上で乗り込む余地もない小六郎は肩に負った瓢の一つをその船中に投げ込み、
「帝の御飲料ぞ!」
と叫んで、残る一つを続いて投げ込もうとした時は早くも陸地の源氏軍の船団を目がけて放つ矢が飛来しはじめた。小六郎が船中に投げ入れようと両手で高くかかげる二つ目の大瓢を矢が貫き一筋の水が噴水のほとぼしるように吹き上げると、次の矢は小六郎の背を刺した。矢の貫いた瓢と共に彼の身体は小舟から海中に転落した。しばらく海上に大瓢が浮いていたが、それが汐を吸って沈んだ・・・小六郎の身体も二度と浮かばず ── そのあたり船中から射る矢と陸からの矢が交差する矢合戦が展開し、もはや矢を射る距離の限界に船団が達してようやく矢合戦は止んでホッと一息すると、御座船に大瓢箪が一つ届けられた。報告の口上が添えられた。
「屋島出帆の際御座船に乗り遅れたる美濃小六郎は小舟にて船団を追い来り、これなる瓢を『帝の御飲料ぞ』と叫んで船中に托し、自らは矢を受けて海中に没しました」
建礼門院と二位局時子はその瓢を手に涙ぐまれた。
「忘れませぬぞ、小六郎」
と時子はその瓢に言葉をかけた。
2021/02/08