~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
壇 ノ 浦 暮 色 (四)
三種の神器とは歴代の天皇受け継がれて皇位の標識とされる三つの宝物。神鏡は八咫鏡やたのかがみ、宝剣は天叢雲剣あめのむらくものつるぎ、神璽は八尺瓊曲玉やさかにのまがたまである。壇ノ浦で帝と二位局入水後の船中の神器のからびつは平時忠がこれを守っていた。宝剣はかつての太政大臣平清盛の妻が帝と共に胸に抱き奉って千尋ちひろの海底に沈んだのである。法皇は勅使を長門ながとへ派遣されて、四月二十五日京に神器を迎え、平家一門の都落ち以来ながらく神器不在の皇居にようやく奉還された。
やはりこの日、守貞親王(二の宮)が壇ノ浦からつつがなく帰られ、新帝の侍従信清に迎えられて、七条邸の母后殖子の御所に入られた。この守貞親王は能円法印(時子の兄)と共に平家都落ちの際に西海に渡られたので、弟君尊成たかひら親王が帝位につかれたという運命であった。
まだ七歳のこの親王は平家と共に大宰府、屋島、壇ノ浦と源平の戦火のおさまるまでの足かけ三年を傅育ふいく係の能円と流籬の旅を続けられてようやく京に帰られたので、母后殖子の喜びはひとかたならず、親王を抱き締めて落涙された。
典子も外祖母としてその還御の喜びを申し上げに母后の許に伺候し、その母君と皇子を見るにつけても・・・わが姉の徳子からの先帝は外祖母時子と共に大海原を墓地として沈まれ、その薄幸な先帝より一歳下のこの皇子はいま無事に母君の許にある・・・典子の心境はまことに複雑でともすれば涙が溢れるのである。
その典子の心中を察してか傍の信清が告げた。
「建礼門院は明日御入洛、直ちに吉田の里の律師実憲の僧房に入られるとのことでございます。また前内大臣さきのおおいのとの(宗盛)もおおかた明日頃に御入洛かと思われます」
そう聞くと、先年から打ち続く平家の不幸におびえた典子は一種の強迫観念に襲われた。
「では、あの壇ノ浦で不覚にも生け捕りになられた兄上、もしや、もしや建礼門院までも、都大路を引きまわされるのでございましょうか?」
信清は驚いて継母の言葉を手で抑えるように膝を正して言った。
「何を仰せられます。建礼門院はいやしくも先帝の御国母ではございませぬか。源氏軍も門院の院生還には心を尽くしたと思われます。院(法皇)も然るべき朝臣をして吉田へお供いたさせるとのお沙汰と承りました」
典子もそれで自分の思い過ごしを恥じた。
── その翌日、宗盛たちや生け捕りになった平家の武士たちが都大路を引きまわされるのだった。
典子は安良井を呼んでひそかに言う。
「兄上はやがて必ず源氏の手によって成敗せいばいを受けられるであろう。せめてお命のあ間のお姿をひと眼見て蔭ながらこの世のお別れをと思えど、どうしてこの身が都大路に立って兄上方を眺められよう。思わず声をかけて走り寄りでもしては、ちまたの噂にのぼり平家の恥の上塗りともなろう。ついては安良井、そなた典子の代って兄上の御様子を見て来てたもれ」
辛い役とは安良井は思ったが、典子の心中を察して引き受けなばならぬと、その日の洛中の群衆の蔭にかくれて引きまわしの行列を涙を湛えて見守った。それは初夏の陽が都大路につれないほど照りつける日であった。
やがて安良井は万感こもごも胸に溢らさせて戻り典子に報告した。
「・・・前内大臣さまと御曹司清宗さまは御身分にふさわしき小八葉の牛車ぎっしゃ御簾みすを巻き上げたなかにおわしました。白絹の狩衣かりぎぬをお召しになってさすが御立派ながら都落ちなされてより艱難辛苦かんなんしんくを遊ばされてあの色白のゆたかなお顔も汐風にやけ、お痩せになって昔の大臣おとどさまとは思えぬほど、胸せまりました。御曹司は白の直垂を召されて父君の後に御同乗にて涙のお顔をうつむかれたままのお姿の痛わしさ・・・次のお車には大納言さま(忠時)、そのあとは二十余人の生け捕りの武将たちはいずれも白直垂姿にて馬上に結び据えられて通り過ぎました・・・」
安良井のその報告を典子は無言で聞き入る。
「わたくしは胸が迫ってそこそこに帰ろうといたしますと母の汐戸に行きあいました。これも北の方の仰せでひと眼お見送りをとて参りました由。その母の申すには、北の方がいずれ建礼門院さまのお許に典さまとお慰めに伺いたいと仰せられますそうな」
「おお、それはもとより典子も祐さまとおたずねいたそうと思うておる・・・それにしても建礼門院が人眼に曝されずひっそりと吉田の僧房へお入りになられたは何より・・・今日のその洛中の見物などさぞ人出であったろうの」
「はい、物見高い都びとの事とてそれはひしめくほどでございましたが、さすがにかつての平家のお膝元の人々、小八葉の車を合掌してお見送りする者も居りました・・・また院も今日御見物にお出かけなされたとの噂でございました」
「えっ・・・平家討伐の院宣を出された法皇さまがどのようなお心持で御見物なさるのであろうか! さても、さても」
眼をきっと釣り上げて歯を噛み締める典子の様子に、安良井は何事か言い出そうとしてつまづき口ごもるのを典子は気づき」
「そなた、かくし事せずになんなりと」
「はっ、いっそ何もかも申し上げます。じつは今日母(汐戸)が歎いて打ち明けましたは、冷泉院隆房中将さまがこの頃しきりと大声で北の方に仰せられますは ── このたびの壇ノ浦の平家滅亡、もし典さまが、中将さまと花山院の殿とのおすすめに従われて二位さまへお文を送られ、源氏と妥協の糸口を開かるれば、事前にくと止められたに・・・と」
「あのような公卿のいやらしい長袖ちょうしゅう流の保身と出世の術にたけられた俗人の殿たちには、平家一族一門主従が誠こもれる心のきずなに結ばれて死をもって平家の誇りをまっとう し“美しき滅び”の歴史を残したがわかろうはずがない。祐さまにはそれがおわかりであろう」
典子はいささかもひるまず敢然と言い放った。
2021/02/10