~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
再 開 (四)
その同じ八月十五日の朝、頼朝が鶴岡八幡宮の参詣には大江広元も供に加わっていた。
先駆の武士が大鳥居にさしかかると、みずぼらしい旅の法衣姿の老僧が頭陀袋ずだぶくろをさげ杖にすがって立ち止まっているのを見咎めて、
「御所さまの御参詣じゃ、そこ退け、退け、早く退いて失せい」
と声高くののしったが老僧はいささかもひるまず、
「拙僧は頼朝公に東大寺勧進かんじんの願いあってここに待ち受け申すのじゃ」
先駆の侍たちには乞食坊主とより見えぬのが臆面おくめんもない言葉に苛立いらだち、
「何を申すか、下がれッ下がれ」
と押しやって悶着が起きたのに、大江広元は何事かと足早に近づくと、
「これなる旅の法師が御所さまに何やら御寄進を願うと不逞ふていなことを申し居ります」
広元は先駆の侍など怖れもせぬ肝のすわった老僧をただの曲者ではあるまいと、じっと見詰めると粗末な法衣ころもに古びた饅頭笠まんじゅうがさの身ながらその顔にはおかし難い気品が備わっている。その僧に広元は丁寧に、
「これはいずれの御僧かは存ぜねど、御所に寄進を願わるる由、公文所別当大江広元代って承りましょう」
旅の老僧は広元の姿をじっと見たが、旅の日焼けの顔を莞爾かんじとさせた。
「おお大江の広元殿とな、これはこれは久しき歳月を経てのくすしき再開よ。貴殿はいまだ若き日に三善康信殿と吉田の里の雨の野道に難渋なんじゅうされるのをわが仮のいおりへ雨宿りにいざなったこの僧を・・・お忘れが当然であろうが、拙僧はあの時の貴殿を大江匡房卿の曾孫として覚えてしもうたわ」
広元は狼狽した。祐姫との悲恋にもの狂おしく雨中をさまよい旅の僧に助けられて廃寺に雨宿りした折、その僧が三善康信の父とかつて歌道の友たりし鳥羽院の北面の武士佐藤義清のりきよの出家遁世とんせいの姿だったのを知った。
「おおこれは西行法師でおわしたか、なんと有難き再会ぞ。必ず後刻宮中(頼朝居館)にて御所との御対面をこの広元取り計らい申さん。されば御参詣終わるるまでしばし待たれよ」
広元の告げた通り、頼朝は参詣後こころよく西行法師を居館で引見して、平重衡の僧兵退治によって焼亡した奈良東大寺再建の寄進を約し当座の引出物に座右の飾り物にあった純銀製の猫を添えて渡された。
やがて広元の知らせで問注所執事の三善康信も欣然きんぜんと駆けつけて西行法師を囲んで歓談の後、営中客殿に手厚くもてなされて一泊した。翌朝も広元は来て「ゆるりと御滞在、旅の疲れを癒されよとの御諚なれば」と滞留をすすめたが西行は首を振って、
「御厚志はかたじけなけれど、これより遠く欧州まで勧進に歩く身なれば・・・貴殿のおかげにて鎌倉殿より御寄進の約を得て満足至極」
と立ち去るのを名残惜しく見送る広元に西行法師は感慨無量に言う。
「あの洛外の雨の野道での若き広元殿はいかにも聡明賢知と見たるが。まさしくわが眼に狂いはなかったのう」
「わが身の今日あるはあの折の『悩みあらば悩み、悩み倦きし時、雄々しく立ち上がれ』との貴きお訓しゆえといまだに肝に銘じて忘れませぬ」
そのような訓しを言うたかは忘れ申したが、ともあれ鎌倉武士群の政治指導者として国家安泰、民心安かれと計られよ。この愚僧ひたすらお願い申す」
と言うより早くも八月の秋風の中を飄々ひょうひょうと西行法師が去るのを広元は身動きもせず粛然と見送っていたが、その瞳には西行法師の淡々たる境涯を羨むに似た色があった。
2021/02/20