~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
時 の 償 い (四)
建礼門院の数奇なる女の一生を三十五歳で閉じられたのは建久二年(1191)の五月、大原寂光院を囲む青葉の山の月をかすめて、ほととぎすの啼く頃だった。
臨終までまめやかに付き添ったのは大納言すけと阿波内侍。佑子、典子が牛車で駆けつけたのは言うまでもない。その姉妹は女院が片時も忘れ給うことなかった安徳帝のおわす浄土におもむかれたと思うと悲しみの中にも心安らかであった。
翌年三月にはかつて源平興亡の中心だった後白河法皇が崩御、宝算六十六。滅びた平家の姫たちには感慨多いことであった。
その頃「後白河法皇の霊がわが身に乗り移っている」と妖言を吐く女があった。それは高倉帝時代の北面の武士源仲国の妻だった。彼女夫妻は妖言の罪で遠島の刑に処された。その仲国は亡き建礼門院が中宮の折に、帝の愛人小督が隠れ棲む嵯峨野の月夜に小督の筝の音をたよりに探し当てたと吹聴したのを平時忠が「『源氏物語』の桐壺を模倣のつくり言」と一笑に附した、その時忠もすでに三年前に配所の能登で六十歳で世を去った。
建久六年(1195)三月、頼朝は夫人政子と長女大姫、嫡子頼家を同伴で上洛して、かつての平家武士団の根拠地六波羅に新造の宿館に入った。その月十日の奈良の東大寺再建供養に臨幸の帝に供奉する頼朝の車を中心に幾万の源氏武士団の行列への見物で路上は賑わった。その東大寺再建の勧進に鎌倉で頼朝に会った西行法師はすでに数年前に七十三歳で世を去っていた。
七条家の信清も東大寺供養に帝の侍従として供奉して帰りその光景を典子に語った後に、
「頼朝公はこの再建に功労ありし宋僧陳和卿ちんなけいに会おうとなされたが、陳和卿は源氏が院宣を得ての平家討伐のためとはいえ、多くの人名を断ち罪業深き者には会えずと拒まれたそうでございます。これ思うに入道大相国(清盛)は宋船を大輪田泊に迎えて宋国と深きよしみを結ばれたゆえでございましょう」
信清は清盛を父とする母への心づかいを忘れぬ。
「宋僧のお志はありがたく思いますれど、今は東大寺や大仏も復興、治まる平和の御代になり、むかしの恩讐は忘れたいと念じて居ります・・・鎌倉殿もこのたびは御台所を伴われてしばらくは京の寺社など巡拝されるそうでございますね」
典子は寂光院の寺領のことからも御台所に悪意は持てない。
「ところが、このたびは伴われた大姫を帝の女御に入内をお望みにて、故後白河法皇の寵姫丹後局を六波羅の宿舎に迎えられて豪華な贈物をなされたそうでございます」
「入内! かつてのわが父君も姫の一人は入内をと望まれて、それが建礼門院を寂光院にお入れした次第となりましたに・・・」
すでに天下一の頼朝ではないか。それが朝廷の外戚になるという事が武士の頭領の最後の大望なのであろうか、やはりわが父(清盛)のごとく・・・典子は亡き父母が姉徳子の皇子出産の際の痴呆じみた喜悦を思い出して暗然とした。“頼朝公もわが父を真似らるるか!”典子は心の中で歎じた。
この頼朝夫妻の描いた“大姫入内”の夢はついに実現することなく終わった。伊豆の地方育ちの政子の直情径行とは大ちがいの京の宮廷摺れのした妖婦丹後局に“入内”を餌に翻弄された形だった。
その大姫は二年後の建久八年(1197)に久しくわずらって世を去り母の政子は娘のあとを追いたいと悲しみ歎いた。しかもその二年後に御台所政子はさらに良人を失った。建久十年一月十三日に相模川の橋供養に臨んでの帰途の落馬が原因だった。その落馬も“平家亡霊”の祟りと世間では噂したが、現代の医家の診断は脳溢血である。
頼朝の生涯は五十三歳で妻政子と嫡子頼家と次男実朝と次女乙姫を残して終わったが、その半年後に次女もまた病死した。頼朝夫妻の娘姉妹が早世したのに対して平家の男系は源氏によってことごとく殺戮されたが女系の姫たちは一人は帝の母后ともんり、あとはみな公家に入輿、三人は母となって子孫を伝えたのとは対照的である。
しかも源家二代将軍の頼家はやがて修善寺に幽閉されて暗殺され、三代将軍実朝は歌人として名は残したが健保七年(1219)一月の雪の日八幡宮の石段の銀杏の巨木の傍を降りる刹那に凶刃に倒れた、暗殺者は亡兄頼家の遺子公暁くぎょうである。源氏は父頼朝が血族の弟義経たちを自滅させたように子孫も骨肉相喰あいはんでついに三代で血筋は絶えた。
かくして一人残された母の政子は当時六十三歳、彼女は建礼門院と同年であるから平家の姫たちも女院徳子と二十四歳で逝った盛子と病弱の寛子のほかは健やかに老いて生存していたかも知れぬ、としたらこの源氏三代で終わった悲劇にいかなる感慨をもよおしたであろうか? 残念ながら男性中心の歴史年表には彼女の良人たちは花山院兼雅が五十三歳で源頼家将軍時代(1200)に逝去とか冷泉院隆房が実朝時代(1206)に五十九歳で逝くとは記録されているがその夫人たちの死去は洩れている。紫式部の逝去の時期さえ不明なこの国の女性無視の習性では止むを得ぬ。
だがわかっているのは典子の継息子信清の一女が佑子の子の冷泉院隆衡に姉妹の約束通り嫁いでいることであえる。隆衡は後年大納言になっている。佑子はさぞ優しい姑であったろう。
明治の華族制度で堂上華族としての近衛侯爵家は摂政近衛基実(盛子の夫)を祖として文麿に至っている。花山院家は侯爵に、冷泉隆房の父隆李を祖とする四条侯爵。七条家は水無瀬みなせ子爵となる。「平家は女系によって今も滅びませぬ!」典子の快活な声がどこからか響く気がする・・・・。
2021/02/21