~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (3-06)
額田女王は黙って頭を下げていた。
今宵こよいやかた には帰さぬ。承知であろうな」
そういう声が聞こえた。大海人皇子は馬の手綱たづなを持ったまま立っていた。
額田女王は依然として黙って頭を下げていた。
「おま輿が迎えに来る。それに乗るよう」
額田は、大海人皇子が再び馬に乗ろうとする気配を感じると、顔を上げて、真っぐに大海人皇子の顔を見た。
「観梅はどこに開かれているのでございましょう」
すると、相手はいかにもおかしそうに笑って、
「観梅の宴は取り止めにした」
「御宴はお取りやめになりましても、梅だけは見せて戴けるのでございましょうか」
「梅か」
それなら、
「あいにく梅は散ってしまったようだ」
「それは残念なことでございます。梅の花を見るというお招きで出向いて参りましたのに」
それには答えないで。
「今日はいつもより美しく見える」
大海人皇子は言った。自分のために美しく装って来たとでも思ったのかも知れない。
それに気付くと、
「梅の花の下に立つつもりで、このように装って参りました。それにいたしましても、観梅の宴がお取りやめになりましたら、失礼させて戴きとうございます」
額田女王は言った。すると、
「なるほど、満開の花の下の立ったら。今日の額田はみごとどぁろう。そにょうに装って来たとあらば、そのようにしなければなるまい」
大海人皇子はいきなり体をひるがえして、馬にまたったと見ると、
「少し遠いが、梅の満開の里にある」
その言葉と一緒に、額田女王は自分の体が、たちまちにして地面からすくい上げられるのを感じた。
あとはどういう事態が自分に起こっているか、額田女王には見当が付かなかった。
金のかんざしが落ち、頸飾りが顔に垂れ下がった。横抱きにされたまま、動く地面を下に見ているよりほかはなかった。それがどのくらい続いたのか、地面が動かなくなったと思うと、こんどは馬の背に引きずり上げられた。
「らくにしていなさい。怖いことはない」
大海人皇子の声が耳許みみもとで聞こえた。らくにせよ 馬はけていた。夕闇が垂れ下がっている原野はどこまでも続いた。額田女王はうまの背に横坐りにされたまま、夢うつつでいた。逃げたくても逃げることは出来なかった。手綱を持っていると言われても、らくにするどころか、生きた気持はなかった。
大海人皇子の二本の腕の中に抱え込まれ、どこへらつし去られて行くか判らなかったが、拉し去られて行きつつあるということだけは確かであった。時々、衆落に入った。山のような焚火たきびをし、それを取り巻いている兵たちの集団があった。一度、何騎かの兵が、大海人皇子を取り囲むようにし、すぐ散って行ったことがあった。そうしたことは、すべてが夢の中のこととも、現実のこととも判らなかった。
どれだけ時間がったか。額田女王は地面に降ろされた。二、三歩歩いて倒れた。
大海人皇子の手でたすけ起された。一面の梅林であった。そこに幾つかの灯火が焚かれ、灯火の周辺だけに小さく白い花が無数に咲き盛っているのが見えた。
梅林を脱けると、農家風の構えの広い前庭に出た。そこにも灯火が焚かれていた。
いつか額田女王は自分が歩いて行く両側に、深く頭を垂れている男女が並んでいるのを見た。土間に入り、そこから家の内部に入った。地方の豪族の家らしかった。
大海人皇子の姿はいつか消え、額田女王は田舎風の中年の女に導かれて行った。夢中で、額田は一度足を停めたが、そのまま歩き出した。一切のことは夢心地の中で行われていた。今自分がどこに行こうとしているのか、額田は考える力を失っていた。
2021/03/12
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