~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (3-05)
こうしたころのある日、額田は天皇がんだという歌を、側近の者から示されたことがあった。
  鉗着けかなぎつ
  が飼ふ駒は
  引出ひきでせず
  吾が飼ふ駒を
  人見つらむか
自分の飼う駒は自分の自由にならず、自分以外の人が見ているのであろうかという意味の歌であった。。明らかに飛鳥に去って行った間人皇后はしひとのきさきのことをしのんでの歌であった。間人皇后は夫である天皇から離れ、実力者である兄の中大兄皇子と行を共にしたのであったが、この一事から推しても、いかに中大兄皇子の言動が宮廷内を左右していたかが判るというものであった。
こうしたことがあって間もなく、幸徳天皇は病の床に就いた。天皇の病があついという報が飛鳥に伝わると、さすがに棄てておけず、間人皇后を初め、中大兄、大海人、公卿たちは難波にやって来て、孤独な天皇を見舞った。併し、十月十日に病あらたまって天皇は崩じた。殯宮もがりのみやが南庭に造られ、百舌鳥土師連土德もずのはじのむらじつちとこが殯宮のことをつかさどることになった。そしてこの年の十二月八日に、大坂磯長陵おおあさかのしながのみささぎほうむまつった。
この間、新政の首脳者たちは難波京に留まっていたが、大葬がすむと、再び大和の河辺行宮かわらのかりみやうつった。こうして幸徳天皇の崩御と共に、難波京は実質的に都としての品格を失い、極く自然に都は大和に遷った。この年の始めに、難波津の鼠という鼠が都を離れて行ったが、やはりあれは遷都せんとの前兆であったと、巷では語り合った。
額田女王はき天皇の霊を祀るために、何人かの者たちと難波の宮殿に居残った。
そしてこの期間に、額田女王は亡き天皇の御子である十五歳の有間皇子ありまのみこと何かと言葉を交わす機会を持ち、その皇子が優れた歌人としての資質を持っていることを知ったのであった。幼い時から頭脳明晰めいせきという点では同年配の皇族の中で群を抜いているという噂があったが、親しく侍するようになって、それが単なる噂でないことを知ったのである。
2021/03/27
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