~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (1-06)
この新宮殿の焼失事件ほど都に住む全ての人に不気味な思いをいだかせたものはなかった。朝野の区別なく、あらゆる男女が、この事件を単なる火災と見ることは出来なかった。巷々には流言が乱れ飛んだ。当然なこととして、放火の切をなす者が多かったが、そればかりではなかった。今度の事件は神意にるものであるとし、新宮殿を焼く焔の中に怪異があったというようなことも言われた。自分の眼でそれを見たと言う者も一人や二人ではなかった。大きな鳥が宮殿の大棟を焼く焔の中から飛び出したとか、焔の舌がすぐぐに天に向かう度に、何とも言えぬ不気味な歌声がどこからともなく聞こえていたとか、そんなことがまことしやかにささかれた。火災三日後に、政府はこうした流言を取り締まるためのれを出した。人心が動揺するのでて置けなかったのである。
都中の人が宮殿の火災に依って大きい衝撃を受けていたが、若し受けていない者があるとすれば、それは中大兄皇子と鎌足であった。焼けてしまったものは仕方ない。焼けてしまった以上、厄介やっかいなことだが、新たに宮殿を建て直す以外仕方あるまい。二人はこう考えていた。ほかにいかなる考え方もなかった。
「工事を急いだことが火災の原因を作ったと思います。こんどはゆっくりと何年かがかりで、慎重に工事を運ばねばなりませぬ。その代わり、前に何倍かする大宮殿が出来上がりましょう」
「巷には放火の噂が流れているそうだが」
「放火であったとしても、いささかも不思議はございません。もう暫くの間は、そういう時代でございます。たかが放火ぐらいで事がすめば、まあ結構とせねばなりますまい」
「神の怒りに依るものだとの説もあるそうだが」
「そう、神意に依るものだとの説がもっぱらのようでございます。これも考え方で、あわただしい都造りや宮殿造りに、神のお怒りがあったかと存じます。こんどは神がお怒りになたぬような大規模な工事を、何年かがかりで始めなければなりません」
鎌足と中大兄皇子の間にはこのような会話が交わされたが、これは間もなく実行に移された。巷には前に何倍かする大宮殿造営の噂が流れた。そしてそれを実証するかのように、おびただしい数の労務者が何集団かになって都から出て行った。こんどの宮材は遠国から運ばれるということであった。何でも火に焼けない木が近江おうみの山にあり、労務者たちはそれを採りに行くのである。そんなことが言われた。
2021/03/30
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