~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (2-07)
額田はその歌が示しているように皇孫建王の死の悲しみから立ち直ることの出来ぬ女帝に、少しでも慰めに成りようにと思って真心をもって仕えた。額田は難波津なにわづの都で自分から去って行った愛する妃を慕っている孤独な幸徳天皇に仕えたが、こんどは飛鳥の都で幼き者の死に身も世もなくなっている斉明天皇に仕えていた。
併し、額田女王は二人の貴人が陥った孤独や悲しみに、いついかなる時でも、自分を置くようになろうとは思っていなかった。大海人皇子おおあまのみこを恋慕する歌も作らなければ、大海人皇子との間に生れたわが子十市皇女といちのひめみこを思う歌も作らなかった。額田は女であることも、母であることも、己に禁じていたのであった。女であることを許せば、たちどころに女としての誇りは傷つけられ、嫉妬しっとに身も心も焼かねばならなかった。母であることを許せば、わが子の将来を思って血眼になって政治の黒い流れの中に身を投じなけらばならなかった。
嫉妬に身を焼くと言えば、そうした事件はこの一、二年に相次いで起こっていた。
建王の姉に当たる大田皇女は斉明天皇の二年に、鸕野皇女は翌三年に、共に大海人皇子に妃として迎えられていた。二人ともまだ少女と言っていいおさない妃であった。中大兄皇子は二人の皇女を弟皇子に妃として与えたのである。
額田がし女であり、母であることを自分に許すなら、既にこの時から額田女王は平静な心で一日も過ごすことは出来ない筈であった。二人の皇女に対する嫉妬もあったし、、やがて大海人と若い妃たちの間に生れるに違いない御子に対して、わが子十市皇女を守らなければならぬ母としての本能もあった。であればこそ、額田は神の名を聞く女としての自分をどこまでも貫かねばならなかったのである。額田は大海人皇子に体は与えたが、心を与えることは自分に禁じていた。そして十市皇女に対しても同様であった。自分の体から出た子として本能的な愛は感じていたが、母親として持たねばならぬ他の一切の感情からは自分を守っていた。少なくとも、そうしようと勤めていたのである。

この年の秋、つまり斉明天皇四年の秋には、都は北方の戦線から次々にもたらされて来る捷報しょうほうにぎわった。
阿倍比羅夫は齶田あきた(秋田)淳代ぬしろ(能代のしろ)二群の蝦夷を討ち、それを全面的に降服させ、更に陣容を整えて軍船を齶田浦につらねた。
この時の蝦夷の首長恩荷おかは皇威におそれ、誓って申しました。官軍に敵対するための弓矢は持っておりません。今持っている弓矢は食物とする獣を撃つためのものでございます。若し官軍の為に弓矢を持つとしたら、それは朝廷みかどにお仕えして、あだなす敵を討つために使うものでございます。かく申し上げる心にはいささかの偽りもございません。齶田浦の神さまがいっさいお知りになっていらっしゃいます。
飛鳥の朝廷の権力者たちにとっては、新政以来最初の朗報と言っていいものであった。恩荷には小乙上しょうおつのじょうの位を授け、淳代、津軽二群を正式に飛鳥朝廷の支配下に置き、それぞれに納める租の額を定めた。そして齶田浦の海岸に、降服した蝦夷たちを集めて、大酒宴を張り、皇威に服する誓を新たに固めて帰させるように、阿倍臣比羅夫に命じた。
2021/04/04
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