~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (1-08)
額田はひとり残されて、萩の株のところに立っていた。どこへ退がっていたのか、侍女がもどって来た。額田は侍女に顔を見られるのがためらわれる気持だった。顔には小さい火傷やけどの跡がいっぱい出来ているはずである。やがて、額田は月に向かって顔を上げた。
つい一刻前に中大兄皇子が月に向かって顔を上げたように、額田もまた顔を上げたのである。
額田はまともから月光を浴びて立っていた。月光に顔をさらしていると、中大兄皇子に捺された火傷のあとが、一つ一つ洗い流されて消えて行った。少なくとも額田にはそのように感じられた。
── その美しい顔も、美しい頬も、美しい髪も貰う。
中大兄の言葉がもう一度聞こえた。額田は、それに対して、心の中ではっきりと返答を口に出した。さっきはひと言も口から出せなかったが、今は口から出すことが出来た。
── 額を欲しいとおっしゃるなら、額を上げましょう。頬を欲しいとおっしゃるなら、頬を上げましょう。項でも、髪でも、欲しかったら何でもお取りなさるがいい。大海人皇子さまに差し上げたように、中大兄に皇子さまにも差し上げましょう。
それから額田は笑った。額田は自分が笑ったと思ったが、侍女にはそうは受け取れなかった。月の方に向けられている女主人の顔がこちらに向けられた時、侍女は思わず息をんだ。それほど額田の面は優しく、静かで、そしてどこかになまめいたものがあった。
額田はその時思っていたのである。欲しかったら何でも差し上げましょう。大海人皇子さまお約束ずみのことでしょうから、何をやろ惜しみいたしましょう。大海人皇子さまがお抱きになったように、どうぞ中大兄皇子さまもお抱きになるがいい。でも、大海人皇子さまに差し上げなかったものは、中大兄皇子さまにも差し上げられません。それは私の心です。神の声を聞くために生れたわたくしが、どうして人間の声に耳を傾けていいでしょう。
── 心は上げられない、心だけは。
額田は歩き出した。自分の思いを、一つずつみしめているように、額田はゆっくりと足を運んだ。萩の株と株の間を通り抜ける時、夜露が額田の足をらした。額田は、中大兄の前に発った時、不覚にも失った神の声を聞く女としての誇りを、今は奪り返していた。額田は中大兄皇子の何人かの妃の一人として、そうした場所に自分を置くことは考えられなかったし、そんなことが出来る筈のものでもなかった。
有間皇子ありまのみこが、狂心を装ってもなお生き永らえることの出来なかった中大兄という権力に対して、自分を守る術は一つしかなかった。心を与えないということである。額田は、この時、一年後の自分に対して、絶対に中大兄に対しての愛情を持つことを禁じたのである。大海人皇子に対してもそうであったように、中大兄皇子に対しても、そうであることを誓ったのである。それ以外に、自由に誇りやかに生きることは出来なかった。嫉妬しっと、策謀、中傷、そうしたもののひしめき合っている世界に身を投じていいものであろうか。
額田は中大兄のことを思念の向こうへ追いやってしまうと、あとは有間皇子のことばかりを思いながら歩いた。有間皇子という若い貴人のことを思うと、いつもかなしみが胸を走った。この夜も例外ではなかった。が、いつもそうであるように、額田の気持は、有間皇子のことを思うことにって落ち着くことが出来た。有間皇子がどうしてもそこから逃れることの出来なかった皇子を見舞った悲運の中に、額田の心を奇妙に落ち着かせるものがあったのでsる。
2021/04/20
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