~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~ |
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== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社 |
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明 暗 (2-07) |
どこから漏れるともなく、巷にも国が今逢着している大事件についての噂が流れていた。半島へ兵を送って新羅と合戦をするそうだとか、いや近く唐の大軍が筑紫に押し寄せるので、それと合戦する兵を集めるのだそうだとか、いろいろなことが風説となって流れていた。民にも、今度の問題は容易ならぬものに感じられた。物騒な噂だけは流れているが、政府からはいかなる沙汰も、いかなる触れも出なかった。朝臣の重だった者は廟堂に入ったまま、もう何日も出て来なかった。飛鳥の山野には野分
とも木枯しともつかぬ風が吹いていた。
額田も、いま国を襲った事件の大要を漏れ聞いて、知っていた。大事件には違いないらしかったが、それが実際にはいかなる性質のものかは判らなかった。宮城内は平生より寧ろ静かであった。そうしている時期に、額田は久しぶりで姉の鏡女王の訪問を受け、彼女が、この夏から小さい館を賜っていることを知った。館を賜ったということは、中大兄の寵を受けない立場に立ったことを意味していた。
「結局は、わたくしは、現在の身の上を有難いと思っています。大勢の妃たちと寵を争うことにも疲れました。皇子さまをお慕いする気持には変わりありませんが、もう皇子さまとはお別れしてしまったのだと自分に言いきかせていれば、長い間には、悲しさも、淋しさも薄らいで参ることでしょう。今考えれば、大和から出て来なければよかったと思います。でも、あの時は、どうしても皇子さまのお傍に侍って居たかったのです。あれから、何年になりますか、もう疲れました」
鏡女王は言った。額田女王は姉に返す言葉はなかった。姉とて、自分の噂を耳にしていない筈はなかった。が、そのことにはひと言も触れなかった。額田は鏡女王の境遇の変化が、自分と無関係なものには思えなかった。中大兄は妹の自分を召す前に、姉の鏡女王を離したに違いないと思われた。
鏡女王は何年か前に、大和から出て来た時とは見違えるほど面窶れがしていた。そして皇子たちの妃の誰もが例外なく持っている尖ったものを、その面輪のどこかにつけていた。妃だけの持つ誇りとか気品とかいうものであると言えないこともなかったが、やはりそれはその生活から自ら生れて来る、女同士だけに判る冷たく悲しい尖りであった。装われた冷静さの底に沈んでいるしく暗いものであった。 |
2021/04/24 |
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