~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (3-09)
額田は就寝する前に、侍女の一人にとびらを開けさせて、夜の戸外を見た。灯火の光がやみの一部を照らしたが、真白い雪の面が、少し青みを帯びて浮かび上がったに過ぎなかった。
「今年最初の雪でございますが、たいへんな大雪となりました」
老女が言った。雪は依然としてまだ振り続けていた。灯火の光の帯びの所だけ、雪片の落ちるのが見えた。時折、この館の外側で、樹木の枝から落ちる雪の音がしている。
突然、異様な叫び声が聞こえた。
「何でしょう」
額田が言うと、
「何か存じませんが、鳥の鳴き声ではございませんんでしょうか」
老女は言ったが、確かに鳥の声のようであった。その異様な叫びがもう一つ聞こえたと思うと、それに続いて大きく羽搏はばたいて飛び立って行く音が聞こえた。
その夜、額田は二回目覚めた。二回とも雪の中に羽搏き、飛び立って行く野鳥の泣き声に眠りを覚まされたのである。二回目の時、額田はなかなか眠りに入って行けなかった。何刻か判らなかったが、館を包んでいる夜の闇は深かった。
ふと、額田は胸さわぎを覚えて、半身を起こした。何事かが起ころうとしていると思った。額田は暫く耳をすませて、そのままの姿勢を保っていたが、別段戸外では何事も起こる気配はなかった。また野鳥の羽搏きの音と鳴き声が聞こえた。額田の胸さわぎはまだおさまっていなかった。別段、刺客に襲われるようなそんな立場にはなかったが、そのような性質の不安を覚えたのである。額田はそれを消そうと思ったのである
そして、まだ燭台のあるところまで行かないうちに、額田はぎょっとして足を停めた。廻廊への出口の扉が不意に外から叩かれたからである。
扉を叩く音はすぐやんだが、すぐまた叩かれた。今度は荒々しい叩き方であった。
「どなたです」
額田が言うと、
「開けてくれ」
明らかに中大兄の声であった。
「お待ち戴きます」
額田は衣類を改めようと思ったが、
「すぐ開けてくれ」
それと一緒に扉はまた荒々しく叩かれた。
額田は扉を開けた。それと一緒に全身雪にまみれた中大兄がまろび込んで来た。普通の恰好かっこうではなかった。中大兄はあたり構わずに雪を払い落しながら、
「何でもなく、ここまで来られると思ったのは不覚だった。戸外は吹雪ふぶいている。すんでのところで、苑内でこごえ死ぬところだった」
満更まんざら緊張して言っているわけでもなさそうであった。くちびるは紫色になっている。
額田は中大兄の背の雪を落とそうと思って背後に廻ろうとしたが、途中で中大兄の手ですき上げられた。あっという間の出来事だった。雪が額田のほおに、首に落ちた。
額田は恐ろしく冷たいものに抱きすくめられて、身動きが出来なかった。
2021/04/28
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