~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (4-06)
三月に入って、突如熱田津滞在は打ち切られることが発表になった。船団は熱田津を出て、一路筑紫を目指すことになったのである。
全船団が発航する当夜、老女帝の御座船ござぶねに於いて、出陣を神に告げる儀式が執り行われた。月明の夜であった。額田は、中大兄皇子が自分の言葉を忘れないで、月明の夜を選んだことを思った。難波発航以来、額田は中大兄皇子とも、大海人とも、ひと言も言葉を交わしていなかった。天皇と、それに仕えている者たちだけが石湯の行宮に起居していたが、中大兄も大海人も船に寝泊まりしていた。鎌足も亦同じであった。
行宮で起居しようと思えば、それが出来ない事はなかったが、新政の首脳者たちはそれを自分に許さなかったのである。難波を発ってからは、既に戦時であった。額田は月光に照り輝いている潮のゆったりとした動きを見守りながら、久しぶりで中大兄と言葉を交わしたような気になっていた。
儀式は月の出を待って行われた。その席には中大兄、大海人、鎌足を初めとして、主な朝臣たちのことごとくが居並んでいた。中央に祭壇がまつられ、神に出陣を告げる儀式は厳かに営まれた。そしてそれが終わると、出陣を祝う祝宴が開かれた。
額田は老女帝の横に座を占めている武装した中大兄皇子の姿に眼を当てていた。月光は中大兄の席まで届いていなかったが、中大兄の姿は一軍の総帥そうすいとしての堂々たる貫禄かんろくを持って見えていた。難波を発ってから三ヶ月っているが、その間に中大兄はすっかり面を変わったものにしていた。まゆも眼も鋭く、ほおの線は厳しいものになっている。武具を纏っているためでもあろうが、体までひと回り大きくなっているようであった。
こうした席の慣例ではあったが、額田にこの月明の出陣について作歌するようにというみことのりが下った。額田は予め何首かの歌を用意して来ていたが、この時、すべてを棄てることにした。
額田は、今なら中大兄皇子の心の中に自分は入り込めると思った。中大兄に代わって、その今の出陣の心情を歌に綴ろうと思った。額田は、自分のために中大兄皇子が選んでくれたに違いない月明の海に眼を当てていた。長いこと身動きしなかった。
額田は席を立つと、老女帝に向かって、歌をささげた。
熱田津にぎたづ
船乗りせむと
月待てば
潮もかなひぬ
今はぎ出でな
熱田津に出陣の時を待っていたが、明るい月も出た。潮の加減も申し分ない。さあ、全船団よ、今こそ漕ぎ出だせ。
額田は二回うたい終わると、席にもどった。一座の反応を確かめようなどという気持はなかった。額田は中大兄皇子の心になりきっている自分を感じていた。女帝の命で作った歌であったが、歌の調べは女のそてであったが、盛られている心は中大兄以外の誰のものでもなかった。全船団はいっせいに潮の上を動き始めていた。潮も光り、船団も光っている。実際には船団は動き出してはいなかっが、額田にはそれがはっきりと、現実の一情景として見えていた。
額田は自分が作った歌の中に全身で投入していた。中大兄の心の中にすっぽりと入っている自分を感じていた。中大兄の全部が自分の中に入り、自分の全部が中大兄の中に入っている。三十六歳の雄々しい総帥は月の出を合図に全船団に出動の命令を下したのである。短い時間が過ぎた。額田はどうして自分が中大兄皇子になりきることが出来たか、判らなかった。ただ、額田は、自分をそうさせたものが、愛とは違うものであることを信じていた。絶対にこれだけは信じなければならなぬといった強さで、そう信じていた。自分は中大兄の心を借りて、神の声を詠ったのである。愛などというものと無縁であればこそ神の声を聞けたのである。船団出動の幻覚が消えた時、なぜか額田の頬を涙が落ちた。
2021/05/04
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