~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (1-04)
難波から筑紫までの船旅において、額田は何回か大海人皇子と顔を合わせた。さすがに今度の旅が普通の旅ではなかったので、大海人皇子も浮いた言葉を額田にかけることはなかった。
真冬の鋭い月光が潮の上に照っている夜、額田は大海人と二人だけで語る短い時間を持った。
めったに二人だけになることはなく、いつも誰か第三者の姿があったが、その夜は珍しく二人だけであった。二人だけになっても、別に不思議はなかった。十市皇女といちのひめみこの父親と母親であった。
「その後、変わりはないか」
大海人皇子はそのような言い方をして、
「中大兄皇子とは、どのようなことになっているのか」
と訊いた。
「どのようなことにもなっておりません」
額田は答えた。
「どのようなことにもなっていないということは、余り信用しない。中大兄皇子が求めなければ別だが、求めれば、ふらふらなびいて行くだろう。生まれつき、そういうところがある」
大海人皇子に言われると、確かに自分にはそういうところがあるだろうと、額田は思った。
「何をうれしそうな顔をしている?」
「嬉しそうな顔などしておりません」
しかし、いま、自分はそうした顔をしていないものではないと、額田は思う。
「俺はさっきから考えている。汝を飛鳥に置いて来るべきだった。何のために、わざわざ筑紫へなど連れて行くことになったのだろう。母帝にお仕えしていた額田だ。母帝の眠っておられる飛鳥に留まっているべきだったのだ」
「そうだったかも知れません。でも、もう今では遅すぎます」
「また、嬉しそうな顔をしている」
こんどは、額田は意識して表情を改めた。やはり、嬉しそうな顔をしていたかも知れないと思ったからである。
「俺は兄の皇子と、額田を争った。そしてけた」
大海人は言った。真面な口調だった。
「どうして、そのようなことを仰せられます」
「本当であってみれば仕方ないことだ」
「なぜ、そんな、負けたなどと」
「負けた!」
額田は身を少しあとにずらした。まさかられるとは思わなかったが、そんなことを思わせる気配があった。緊張した空気はすぐ破れた。
「俺は額田の体をった。子供を生ませた。── それだけだ。然るに、中大兄は汝の心を奪った」
「いいえ」
額田は真剣に首を振った。
「そんなことはありません」
「ないと言うか」
「ありません」
「体は奪ってあるかも知れぬ。ないかも知れぬ」
それに対しては、額田は返事をしなかった。
「体を奪ろうと、奪るまいと、たいしたことではない。中大兄は汝の心を奪っている」
「いいえ」
額田の首の振り方は真剣だった。
「心など差し上げてはおりません。心だけは」
「心だけはと言ったな。それでは体は与えてあるのか」
額田は憤った振りをして立ち上がった。そして、
「中大兄皇子さまは、いま額田どころではございません。心の全部が半島に飛んで行ってらっしゃいます。八月の前軍に引き続いて、いまは中軍、後軍の出動の時期をうかがっておいでになります」
「よく判るな」
「誰にでも判ります」
「いや、誰にでも判らぬ。額田だけには判る」
「どうしてでございます」
「額田は熱田津にぎたづで、中大兄に代わって、歌を作った」
「いいえ、あの時、わたくしは亡き帝に代わって」
「そんなことを言っても、この大海人はあざむけぬ。額田は兄の皇子に代わって、あの時、その心を詠ったのだ。まさか、あの歌を忘れまい」
「覚えております」
「その歌を、もう一度聞かせてくれ」
「──」
「詠え」
「── 熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はぎ出でな」
額田は低い声で、曾て自分が作った歌を詠った。額田は不思議な 昂奮こうふんに襲われていた。あの時も、そうであったように、百千の軍船が潮の流れに乗って移動して行くのが見えた。月光の散っている暗い潮の上を、次から次へと大船団は移動して行く。額田は大海人皇子にことを忘れて、大きい感動に身を任せていた。
幻覚が消えると、額田はひどい疲れを覚えた。
「その歌は、中大兄皇子に代わって詠った歌だ。俺にはよく判る」
こんどは、額田は黙っていた。言い張っても、無駄だと思った。大海人皇子の指摘の通りに違いなかった。
「汝は中大兄皇子に心を奪われている」
「いいえ」
「それでなくて、そんな歌が作れるか」
「おっしゃるように、中大兄皇子さまのお心を詠ったのかも知れません。でも、あなたの仰るように、中大兄に皇子さまに心を奪われていたら、このような歌は作れないと思います。奪られていないからこそ ──」
額田は言った。権力で召されれば体は与えるらろう。女体であれば体は酔うだろう。あなたとの場合のように、皇子でも、皇女でも生むことが出来るだろう。が、心は与えないのだ。与えていいであろうか。
額田は、月光に顔を向けて立っていた。大海人皇子も立ち上がったが、何も言葉は口から出さなかった。大海人皇子にそうさせるだけのものを、その時の額田の顔は持っていたのである。
額田は、このように大海人皇子と二人だけで話をする時間を持ったが、そのあとは、なるべくそうした機会を持つことを避けた。
額田は大海人皇子に指摘されたように、自分が中大兄皇子にかれているのを、自分で感じていた。少なくとも大海人皇子と関係を持っていた時、大海人に対して持っていたものと、現在中大兄に対して持っているものと較べると、確かに違っていた。しかし、心は惹かれていても、その心は与えてはならぬものであった。もし心を与えれば、つまり中大兄に女としての愛情を持てば、その時から額田は地獄の責苦を味あわねばならなかった。中大兄皇子の妃たちと、その瞬間から仇敵きゅうてき同士ににならなければならなかった。他の妃たちとちょうを争わねばならぬ一事を考えただけでも、身の毛のよだつ思いだった。愛を永遠に動かぬ変わらぬものとするためには、子供を生まねばならなかった。が、子供を生めば、母と子は、好むと好まぬに拘わらず、自分たちを守るために他を押しのけなかればなたず、そのためには、いやおうでも、醜い争いの中に身を置かねばならなかった。
だから、額田は大海人皇子にいかなることを指摘されても、顔色を変えるようなことはなかった。多少はっとすることはあっても、平静心を失うようなことはなかった。中大兄に与えたものが特別なものであろう筈はなかった。大海人皇子に代わって、中大兄に与えるようになっただけのことである。
額田はこの船の旅で、今まで彼女が持たなかったやはり豊かといっていいものを、その面に着け始めていた。時には悲し気に、時には満ち足りたように、また時には放埓ほうらつでさえあるように、その面は見えた。額田自身にはわからなかったが、額田以外の者にはそれが判った。
2021/05/11
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