~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (2-06)
明くれば中大兄皇子の称制第一年である。正月の下旬になってから寒い日が続いた。そしてその果てに雪が落ちた。筑紫地方にとっては雪の降るのは珍しいことであった。南国から徴されて来ている兵たちは寒さに震え上がったが、寒国から来ている兵たちは、久しぶりで郷里の雪を思い出して悦んだ。朝臣たちも都の雪と比較して、同じ雪であるのに、なぜこのように風情ふぜいがないのかと、そのようなことをささやき合ったりした。
雪は二日降り続け、三日目の夕刻にんだが、その雪の歇んだ夜、兵船の小さい一団が筑紫の港から出て半島に向かった。同じ兵船の発遣ではあったが、こんどは一人の見送りもなく、夜の闇にまぎれて、こっそりと船出して行くといった格好かっこうであった。何そうかの船が梱包こんぽうした箱を満載し、それを囲繞いにようするように何十艘かの兵船が配され、その船団はその形をくずすことなく港を出て行った。
二、三日すると、ちまたにはこの隠密裡おんみつりに行われた兵船の発遣のことがうわさとなって流れた。夥しい数の武器、武具が半島の戦線に送られたのだと言われたり、半島の作戦の指導者として、貴人の一人が百済を目指したのだと言われたりした。しかし、何が送られたか、一部の朝臣たちを除いて、正しくは誰も知らなかった。
それは、百済再興軍の指揮者鬼室福信への贈り物であった。梱包された箱の中には、矢十万隻、糸五百斤、綿一千たん、一千張、稲種三千こく、そういったものが詰められてあったのである。矢十万隻を別にすれば、他のものは直接戦闘に役立つ武器でも武具でもなかった。
この隠密裡に兵船が発航して行った夜、額田は中大兄に皇子に侍して、行宮の高台から、この船団を見送った。雪が歇んだとは言え、いつまたふり出すか判らぬ空模様で、寒気はむしろ雪が歇んでからの方がきびしかった。
「船が出て行く」
中大兄皇子は言った。闇に包まれている港に、いかなることが起こっているか、額田には判らなかった。一艘の船も見えなかった。しかし、額田は中大兄の言葉で、半島へ送る物品を積んだ船がいま出航しているのであろうと思った。何が詰められた箱であるか知らなかったが、夥しい数の箱について、それが無事に半島に届けられ、戦闘に役立つようにと、数日前に神に祈ったことがあった。そういう神事に、額田は仕えていたのである。
「あの箱の中には何が入っているのでございましょう」
額田がくと、
「何かと思うか」
中大兄は逆に訊き返して来た。
「さあ」
「布、糸、綿、そうしたものだ」
そして、ここで言葉を切って、
「国の民が苦労して作ったものだ。民自身が咽喉のどから手が出るほど欲しがっているものだ。知ったら、さぞ恨むだろう。それを半島に送った。半島では武器や武具も必要だが、慰安はそれよりもっと布や糸や綿の方が必要だ」
「わざわざこの暗い夜を選んで、船をお出しになったのでございますか」
「そうだ。が、民の眼からかくすために、このような夜を選んだのではない。それより無事に半島に届けたいからだ。こんどの船だけは無事に届いてもらわねばならぬ。でないと、これを作った民たちに申し訳がない」
「皇子さまが御派遣になります船のこと、どうして無事に半島に着かないことがございましょう」
「そう簡単には行かぬ。幾らでも敵方の船も出没しているだろう」
中大兄皇子は言った。
2021/05/13
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